掬水
二十八.掬水
「世界に一体化できないの。」
彼女は言った。
年の頃は24,5か。わざとらしく濃くした化粧の香りが、私の鼻腔に心地よかった。
街灯が疎らの田舎道で、水田に素足を浸した彼女の足が薄闇に溶けかかっていた。
思わずその光景に心を留められてしまった。
セーラー服を着るには大人びたその顔、気色にも惹かれた。
時計の針は23時を随分過ぎていた。
寂れた土地、梅雨が近いというのに渇いた土と湿った土が織り混ざったような匂いのする、因縁さえ覚える土地。
里心というのか、およそ二十年ぶりにこの地を訪れたくなった。
幼年の頃にはよほど大きな水田郡と思っていたが、今になってみれば縮小化され手のつかぬ荒れ地となっている田も散見された。
それでも夜となれば蛙の声が耳に五月蝿い。
この畦道を夜に一人歩いて泣いた子供時代を思い返していた折、件の彼女の姿が目に飛び込んできたのだった。
夜も更ける田舎の暗い空の下、田に足を浸す少女────
少女の足に見えたのだ。ぼうっと闇に透けるような足があまりに幼く見え、あまつさえそこに私は自分の幼い幻想の姿を重ね見ていた。
二十年以上も昔の、重苦しい記憶に埋もれた少女の私。奥の隅で膝を抱いた暗い影を背負った姿。
幻像を破るごとく、彼女はあっけらかんと口を開いた。
「田んぼって、嫌いなの。だから私と一体化させたかったの。」
唐突な彼女の訴えに、私は虚をつかれてしまった。
足の輪郭はくっきりと夜に映えてきたのに、彼女の表情までは掴めない。
存在を杳としてぼやかしていた、少女の頃を思い出す。
「水に浸しても夜に紛れようとしても、どこまでいっても世界は私を拒絶する。一分の隙なく存在が溶け込める場所がほしいの」
彼女は真っ直ぐに私の目を見て話した。
黒目がちの、形の整った目だった。
施された化粧を落としたとて、美しいのだとわかる。
そして私はいつかの感覚を想起していた、彼女の言葉によって。
バスルームの床、冷たいタイルを背にして仰向けに転がる身体。
意識が戻ったとき、タイルのあまりの冷たさが私の全存在との違いを主張しているようで、身体が強ばりいくのを感じた。
背中の下側に私だけの精神世界が拡がっていると信じていた。
透けるような青空と太陽、その周りに浮かぶ花々、隣では三日月が手を振っている。大きな紺青のクジラが空を泳ぎ、満々とした海がしぶきをあげている。
蝶々が舞っていき、私の背骨に触れた瞬間、世界がすべて粉砕した。
それによってバスルームのタイルに触れた背中の感覚が戻ってきたのだった。
「私の居場所はここでしかない。」
ひとり呟いた、宇宙にまで意識を飛ばしてみても、自分の肩を自分で抱いても、バスルームで死体となってみても、
帰結するは私の身体と意識でしかなかった。精神世界への回路を失いたくない、漠然と考えていたあの頃の私は、とにかく現実の少しとなりの世界に行きたかった。
余りの現実界に存在することの危うさから自分を守りたかった。
自分だけの精神世界が現実から少しそれた場所にあるのではないか、そう信じて自己の内部から沈んでいったのだ。
背中を透して、しかしバスルームのタイルに拒絶された。
世界とは分離している事実こそが私の存在している証明だと知った。
少女だった幼い私が天井から鬱々と見下ろしていた。
その当時の心のありようを、田んぼの畦道で話す彼女との会話でふと思い起こしたのである。
「自我に入り込むすぎると、」
私は初めて彼女に口を聞いた。
「自我に入り込む過ぎると、すべてが内部にむかっていくから、だから世界に拒絶されるのだと思う。」
「へぇ、あなたって、私なんだ?」
水田から足を引き上げながら、彼女は笑った。
水の玉滴る足が美しかった。
水滴がひとつひとつ垂れていくにつれて、彼女の存在も溶け薄れていくようだった。
次第に薄く消えかかっていく彼女は笑顔で、それを見やりながら私もまた涙を流しながら笑った。
心にじわりじわりと彼女のいなくなっていく喪失感が疾走していく。
エネルギーのひとつ消滅するには、それに追随するエネルギーもまた途方もないと知った。
彼女の消え去ったあとに残った彼女の気配は、しばらく色濃かった。
<了>
よろしくお願い申し上げます。