一.土 私が土に籠りはじめて、どれくらい経っただろう。 なかなかどうして、やはり土のなかは居心地がよかった。 ひんやりと私の体を包み込みながら、しかし内臓までを冷やす事はなく、静かな音のない世界にあって、私の心臓の脈動と血流をも感じられるほどだった。 暗さ。圧倒的視界の暗さ! そう、眼前はもちろん土だらけで自分の体さえ判然としない。 一体どんな姿勢でいるのか、足指や髪の毛先はどうなっているのだろう。 全体打ち沈んだような静けさ。 もしや耳の穴奥まで土に埋もれているのだろう
「鏡を天井に向けたらだめ。天井にいる神様が怒るから。」 私が床に上向きに置きっぱなしにした手鏡を見つけるたび、リカは苦言した。 「天井に向けた鏡をのぞくと神様の姿が映っていて、それを見た者は呪われるんだって。」 そう言いながら鏡を裏返すまでが一連の流れであった。 神様がいるのか、天井にも。 いつも感心するばかりで、ろくすっぽ頭に残らぬ私はふと彼女にたずねた。 「天井の神様は男性?女性?」 いっしゅん、視線を上へ向けた彼女は、まるで誰かに咎められるのを避けるため逃
三十七.別離 もうずいぶん歩いていた。 乾いた地面や湿った土砂にまみれ、玉のような汗を幾億と産み落とし、靄がかる木々を見上げては果てどない重力に足元へ目線を引きずられ、すべてから解放される時、ついに切り立つ崖が現れた。 脅威的にも慈愛的にも思われたそれは、暗然と手を差し出した。 崖の淵、その言葉を景色として目にしてみたかった。 精神性、形而上での崖っぷちではなく、体感する圧倒的な絶望を知りたかった。 道を行くなか、急な勾配を汗の流れる体はぬるぬる登った。 まるで無脊椎動物
三十六.暗夜 ある時、脳の電源が切れたと彼は思った。その瞬間、ぶつっと鈍い音が聞こえ、視界は世界を見ているのに、自己の内部世界は真っ暗になったのである。 「あっ」と声が出た。 しかし傍目には彼の内面に起きた変化など、誰にも分かりはしなかった。 「おはよう」「雨だね」「ごはん何食べる?」 日常的な会話に関して言えば、聞こえるし答えられたと言えよう。 ただしくぐもった、水に潜ったときに耳に伝わる音のような、少し遠いところから彼らの声が届くのだった。 「調子どう?」
三十五.綾子 綾子は私たちのクラスに転入してきた当初から、もうそのはじめから浮いていた。 彼女の放つ異様さは近寄ってはならない、こちらに何らかの害を及ぼす毒々しい色彩であった。 果たして私は近づくことなかった。 もとより誰とも距離を近づけることない私だったが、綾子がいつも肌身離さず写真を持っていて、それが彼女の赤子の写真であると言う噂が聞こえていた。 そもそも誰も信じてはいなかった。 ゼェッゼェと咽を鳴らして喘ぐ綾子の姿は珍しくなかった。 いつでも話し声ひとつ
三十四.雪と月 A子はまた今夜も便器を抱えて眠る夜を迎えていた。 覚えば彼女が十代の終わりがけの頃からはじまった習慣であるから、足がけ何十年になろうとしていた。 ある時久しぶりに顔を合わせると、思わず骸を想起するほどの、可哀想なくらいに痩せ細った身体だったりする。 しかしまた日が経つと顔を丸々とさせて現れたりする。A子はそんなような不安定な精神を窺わせる女だった。 それでありながら表だって悲愴感のある風でもなかった。表情に歪みはあるものの、顔の作りが悪いわけではな
三十三.季節わすれ。 冷えた風の下、満開の桜に見下ろされながら、私達は閉塞感に圧迫され身体が千々に引きちぎられそうにいた。 およそ三十人の少女達が互いの様子を窺いながら笑ったり、牽制するように口をつぐんでいた。山に囲まれ森と空と桜以外何も見えない景色に追いやられた、異様な春が訪れていた。 とにもかくにも私は塀に囲まれた小さな世界に押し込まれ、星すら見ることの叶わぬ生活を強いられていた。 自由の反対とは規則である。 そこでは規則が自由の上にたち、何一つ我々の意思によって選択
冷たい。 湖沼を覗きこめば、まるで獰猛な怪物が寝そべるようにして、底に深淵がいた。 水面では水の揺れ伝うさまは静かでやさしい、深く浅く、上下する水の輪、たちまち消える水泡、さもそこに息遣いするなにかが眠るよう。静謐に落ちこむ時間、その世界。水の世界。 音が戻ってくるとそれは、大きな犬の呼吸にも似ていた。 しかし浮かびあがる影を目で追えば、沈みいく底暗さで、もう見えない。 生を食らう死の臭いを感じる、動かぬはずの深淵から。 時間は真っ直ぐに水面から突き刺さったまま。バリバリっ
三十二.健やかに死す 当時母親は我々の家庭において、私の父親ではない男とともに暮らしていた。 思春期真っ盛りであった十四歳の私がその事実を快く受け入れられる理由など一つもなかった。 その男の醜悪さは視界に姿を捉えることすら苦痛のそれで、突き出た眼球や分厚い唇、今にもどぅるんと体から剥がれ落ちそうに重い腹が特に私の気に入らなかった。 我々の日常生活の一端という風に食卓にその男が存在しているのである。 狭い居間に存在する異物感、不快な生き物はカフカの変身を思い起こさせる
三十一.海 夏の日。冷たい肌を重ねながら、太陽に照らされ彼女は笑っていた。 同じ罪を犯した私達は再会してほどなく打ち解けた。急速に深まっていく関係性を構築するなかで、似通った家庭環境であった事も知った。 私の母親は自死であり、彼女の母親はとっくに母親の役割を打ち捨てていた。 男性性を卑下し、私達は女性性を執拗に訴えながらも成人をむかえてなお少女性を奪われぬよう、二人の裡で秘密を堅牢に抱えていた。 共犯する意識と共有する感覚でもって、お互いの存在を投影しながら現実を
三十.隘路 少女は壊れた箱を抱いていた。 暗がりのトンネルで立ちすくむ私達は憔悴しきっていたし、他者へ興味をむける注意力も欠けていて、何より最も言えることは視界が恐ろしく暗く脅かされていたということだ。 なので少女がそれを、半ば蓋の閉じなくなったそれを、どうにか開いてどうやら中を私に見せようとしていると気づいたのは、ずいぶん周りが静かになってからだった。 11歳かそこらであろう、ぐしゃぐしゃになった三つ編みを垂らした少女は、私へ真っ直ぐ視線を向けているようでまるで私を見て
二十九.Into 青 彼女は肌を失った。徹底的な冷ややかさがそれを私に伝えた。 心が磨り減るほどに、相手の磨り減った心と擦り合わせ、なお互いの心を磨耗させる。 いかなる作用機序も愛せるか。 靄がかる思考、脳内が茫漠として働きを鈍くしていた。 なんと無力な機能たちかと己の身体の無効化を欲した。 抑制されるだけの情緒なら捨てるがいい。 瞬間、怖気とともに何らかの感覚が体内から抜け落ちていった。 頬のあたりから歯が揺れるような不快感が私を掻き抱き、されるがままに身を委ねた。
二十八.掬水 「世界に一体化できないの。」 彼女は言った。 年の頃は24,5か。わざとらしく濃くした化粧の香りが、私の鼻腔に心地よかった。 街灯が疎らの田舎道で、水田に素足を浸した彼女の足が薄闇に溶けかかっていた。 思わずその光景に心を留められてしまった。 セーラー服を着るには大人びたその顔、気色にも惹かれた。 時計の針は23時を随分過ぎていた。 寂れた土地、梅雨が近いというのに渇いた土と湿った土が織り混ざったような匂いのする、因縁さえ覚える土地。 里心というのか、およそ
二十七.鮨 甘い身だった。口に含み、舌で味わうよりはやく脂身が舌と一体化して溶け消えていく。 私が身となり粘膜へと沈みこみいくよう。 A子の唇に吸い込まれていった甘鯛の脂が、彼女の唇をうっすら光らせている。 A子の唇は上唇の方が少し大きく、情感に溢れふっくらしたそれは桜貝を思わせる。 それが実は甘鯛なのだった。 丁寧に包丁をいれられ透けた身の色づきと、A子のてらてらした唇の色づき。 甘鯛の身も彼女の唇も色合いが互いに混じりあったように美しく、私にはもはや甘鯛の身が
二十六.緑と青-2 轢いたのだ、人間を。 動揺する彼を傍目に、私はこのまま強行しようと言った。 横たわる人間を振り落とし、轢き逃げする覚悟でいた。 彼は私の言葉を無視した。 それまで一度も私に逆らったことのない彼が、車外に出て郵便局員の体へ手を伸ばそうとしていた。 救うつもりであろう。 もはや救うも救わないも私にはどうでも良かった。 彼が私の言葉を無視したこと、それは裏切りであり、あってはならぬことであった。 私の心にどす黒いものが滲みいき、それは骨を伝って脳内にまで伝染し
二十五.緑と青-1 彼はいつも笑顔でいた。どことなく不安げな笑顔で、こちらの表情を盗もうとするかのように笑うのだった。 私が笑えば彼は笑い、私が機嫌を損ねると彼はまた笑った。 彼の肌は青白く、骨格からして華奢で、私との身長差は20センチほどもあった。 やけに真ん丸い目をわざとらしく細めて笑う彼に、捨てられたくない犬みたいだと嫌悪をまじえて言い放つと、彼はあっけらかんと笑った。 「じゃあ僕は犬だ。」 不安を忍ばせたいつもの表情で。 それから彼は犬のように私に懐き、犬のように私