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一.土

私が土に籠りはじめて、どれくらい経っただろう。
なかなかどうして、やはり土のなかは居心地がよかった。
ひんやりと私の体を包み込みながら、しかし内臓までを冷やす事はなく、静かな音のない世界にあって、私の心臓の脈動と血流をも感じられるほどだった。

暗さ。圧倒的視界の暗さ!
そう、眼前はもちろん土だらけで自分の体さえ判然としない。
一体どんな姿勢でいるのか、足指や髪の毛先はどうなっているのだろう。
全体打ち沈んだような静けさ。
もしや耳の穴奥まで土に埋もれているのだろうか。

そもそも私が土のなかへ潜ろうと考えたのは、根がきっかけである。
花落ちたとて、根っこさえあれば何度でも咲き返られる花たち。
地中どこまでも食らい込み、死んだとて朽ち木としてそこに在り続ける大木の根。

そんなものたちへの憧れと怯懦から、自然と私の思考は土の奥底地中へと降下を辿ったのだ。
土のなかへ。

慎ましく静かで誰と言葉交わすこと無く、何もすべて見る必要のない安らかな暗闇。
ひっそり自分だけの存在する場所。
それが土のなかのすべてだった。

あぁ。依然私は土に成り得ていない。
私のままで土に籠っている身である。

逃げるように土に潜り込んだのだったかもしれない。
地上から自然淘汰されたことにもなるかもしれない。

とにかく、如何様にも私は今、土のなかに一人である。
どのくらい土のなかに過ごしているのか。
これは残念ながら明らかにならない。
ただ確かに言えることは、私の身体が未だ土に同化していないという事実である。
自分の身体の微細な感覚は無くしたに等しいが、土に包まれている感覚だけはしっかとある。
私は土と触れている。
土が私に触れている。

穴を、掘ったのだろうか。
この手で。
はじまりの記憶は土に飲まれてしまったようだ。
朧気ながらも、土に侵入した私を土は幾らか拒んだことを感情で覚えている。
拒否の力を感ぜずにいられぬ、私を阻み、私から身を防ぐ固さを土は弄していた。
本能的な防衛反応だったと見て間違いないだろう。
土にしてみれば私など異物でしかない。
別の生物であることは火を見るよりも明らかなのだ。

砂粒や泥で紡がれた深い土の奥底へと侵入し、空間を圧し拡げガランドウにした。
そしてガランドウへ私の身体を滑り込ませる。
横たえたのか、仰臥したのか、はたまた膝を抱いて丸まったのか。
なんにせよ私は土に無理からおさまるように、籠ったのである。

しばらく土との対峙、拮抗は続いたと言える。
ぽかんとしたガランドウに浮かぶ私を覚えている。
なんとも不可解で釈然とせぬ思いであった。
土のなかにいて、まるで鉄格子に囲まれた穴ぐらにいるよう。
今にして思えば、まさに絶望の底だった。

堅固たる土の感触から、溶けるように緊張が解けていったきっかけとは、降りだした雨だった。
諦念とともにひたひた土を介して伝ってくる雨水は私へと滲みこみ、しっとりした泥土によって私が包まれていく肌の心地は今もってありありと残っている。
次いで私を土へと溶け込ませてはくれないかと望んだが、それは叶わなかった。
土は土のまま、私を俯瞰的に捉えるのみ。

そうしていつやら、それら土によって作り出された環境に私はすっかり絆され感覚を鈍磨させ、意識の収縮拡張を揺れつ戻すしながら、土のなかにいる。
私が土のなかに籠っている。

揺りかごや胎内のような安らぎは土にはなかった。
ただそこに土があるという、確固たる存在感。
土のなかに私が存在しているという、絶対的事実。
土とともにある共生感覚は、ない。
やがてこの身が土の一塊と化す想像を何度繰り返したことだろう。

どうかしても、どうしようと、土への同化を願えば願うほど、私に身動きしようなど気は起きなかった。
四肢を振り乱し暴れるとか、口を開け土を貪るとか、そういった物理的な行為になんの意味があろう?

待つでもなく、じっとしていた。
また雨降るようだった。
とっさに指の先の感覚を思い出したようで、人差し指だか中指だかが震えるのを私は感じた。
久しぶりの感覚に違和感を覚えたのは、どうやら私の体に異変が来した徴のようだった。
根であった。
指から根が生えたのか、指が根となったのか。
私は根ざしたのだ。
そしてそれはもはや、私が土に同化できぬことの証なのだった。


(了)








よろしくお願い申し上げます。