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わたしを視るわたしとそのほかの目の話

1.人に接触しないわたしを除けば

あるウイルスの爆発的流行の末、各国の政府はこの問題を解決するため、国単位での政府を解体し、「世界政府」を発足。それが誕生したのちの最初の政策が世界封鎖要請であった。これまでは国単位での外出自粛がせいぜいなところではあったのだが、すでにウイルスは猛威という段階を超え、わたしの肌感としては私たちを乗っ取りにきている。というのが素直な感想である。

自粛生活から外出禁止に移行してからというもの2年の歳月が過ぎた。わたしは自粛時代以前からすでに一人暮らしであったため、もうかれこれ「人」という存在に2年以上あっていないことになる。いや、わたし自身を除けば。の話である。それでも案外生活は普段と変わらないように進んでいくのであって、仕事は全てリモートワークといってデジタル空間で全て補い行なっている状況である。人には接触できないから、私たちの接触はビデオ通話なり音声会話なりが基本のコミュニケーションであった。外に出れなくなってから7ヶ月が過ぎた頃にはすでに「リモートワークマナー」というものがわたしの国(世界政府にはなっているが)ではちまちまと作られ始めた。私たちはオンライン会議の場では、歯を見続け笑わなければいけないし、声のトーンはいつもより2音は上がっていなければいけない。それがデジタル越しで人と接触する上でのマナーだった。目上の人と接触するときには、バーチャル背景は使ってはいけない。カメラからの適切な距離までガイドライン化された今日は、接触したい人間が接触するためにデジタル空間上であえて距離をとるという本末転倒な行為に思えて滑稽だった。

しかし私はこのビデオ通話にはとても不思議な感覚を得ている。わたしはいつも二人いることに気づくからだ。誰も不思議に思わないだろうか。この接触禁止期間からわたしはわたしを視る機会が増えた。特に人と接触するときには基本わたしの顔を視ている。オンラインビデオ通話とは、わたしと接触するその他複数のリアルタイムのカメラが画面上部に四角く切り取られて並んでいるのだが、そこにわたしの顔が存在していることにどうも違和感を覚える。リアルであれば、わたしが誰かと接触するとき、わたしを見られるのは接触した相手のみであって、そこに私を見つめるわたしの姿を知覚したことなんてない。だがここ2年間ずっとわたしはわたしに見られている。例えば5人で会議をしているとするならばそこには6人目が存在している。わたし1とわたし2である。そしてわたし2はわたし1をずっと見ている。

わたしに部屋には一人しかいない。

わたしを視るわたし2は、歯を見せて笑っている。わたしの地声ではない高さの声で、淡々と話している。わたしはすでに分裂したわたしに支配されている。爆発したウイルスはわたしを分解し、わたしの存在を少しづつとかしていく。

まだみている。

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