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【小説】it's a beautiful place[22]島で知り合った男達は口を揃えてこう言う。「この島には何もない」。その言葉を聞く度に私はいつも思った。じゃあ、東京に何があるって言うんだろう。

22
 
 翌日。店の営業終了の十分前に、龍之介からの電話があった。もう知名にいるそうだ。私はその電話に躊躇いながらも頷き、化粧を直して外へと出た。

 いつもの駐車場に龍之介は車を止めて待っていた。車に寄り掛かり、足をぶらつかせている龍之介は、私を見るなりぱっと顔を輝かせた。大股で私に近付いてくる。

「来てくれんかと思った」
「どうして」
「昨日、何か嫌そうだったから」
「そんな事ない」

 今日は車だから酒が飲めん、と言って龍之介はジュースを買った。奈都は何、と聞かれ、お茶を頼むと龍之介は私の分も買ってくれて。ぽんと缶を手渡した。それと同時に私のバッグを持とうとする。私はそれを遮った。

「いいよ、軽いし」

 龍之介はそれにまた傷ついたような顔をした。私は自分がそう言ったというのにそんな顔を見たくなかった。どうしていいかわからないまま唇を噛む。

「まぁ、乗って」

 龍之介が気まずい雰囲気を遮るかのようにそう言って、私を助手席に促した。私はそれに頷き、車に乗り込んだ。

 車は和泊方面へと走って行った。車中は静まり返っていた。あの日、海に行った日の、何も始まっていない癖に楽し過ぎて困るような気持ちは今はもう欠片もなかった。私は龍之介が買ってくれたお茶を飲みながら、車窓から流れる景色を見ていた。さとうきび畑にも海にも街灯などないから、島の夜は何処までも暗い。同じ道なのに昼間走るよりもずっと長く感じられた。

 龍之介は一度家に戻ってから着替えたようで、体から石鹸の匂いがした。肘の骨の尖り具合が目立つ腕で、ハンドルを無造作に操っている。前を向きながら、少し唇を尖らせ、ひたすらに車を走らせていく。私は龍之介の様子を盗み見て、またお茶を飲んだ。また、もう一度触れたいと体が言っていた。何度でも触れたい、触れられたいと体が言っていた。けれど、もうそんな風に出来る筈がないのだ。私はこれから言わなければならない言葉を考え、拳をぎゅっと握り締めた。

 車は和泊を越し、空港を越し、灯台の下で止まった。

「さすがにこの暗さじゃ崖下ってこの前の海までは行けんけど、ここなら大丈夫だろ」

 龍之介は、少し笑ってそう呟いた。私は、拓巳や悠一ともこの灯台に来た事があった。けれど、その時、私がそれを言える筈もなかった。龍之介が私に、精一杯島の美しい場所を見せてくれようとしたのがわかったから。

 本当は何処かでこう思っていたのだ。よくある話。龍之介は美優の事をそう言った。だから、私と龍之介もよくある話なのだと。あの店の誰々を食った。そんな風に言っている口性のない島の男達と同様に、龍之介もそうするかもしれないと。だが、すぐさま、翌日に店に来てまた会おうとする龍之介の気持ちは、きっとそんなものではなかった。

 そんなものではなかった事を喜ぶ気持ちと同様に、そんなものでよかったのにと思う気持ちが私の中にあった。そんなものだったのなら、楽しく南の島にいた頃のちょっとした一晩として忘れ去る事が出来る。けれど、こんな風にされてしまったら。

 空を見上げると、暗闇に真っ直ぐな光が四本何処までも伸びていた。その隙間には無数の星が見えた。その光の線に切り取られた夜の部分は濃度すら感じられるような深い黒で、そこに小さく瞬く星は小さな甘い光を放っていた。それらを切り裂く灯台の光線は、何処までも何かを照らし出してくれそうだった。行き先を照らす、自分が何処にいるかもわかる灯台。私はその光に自分の心の本当の隅々まで暴いて欲しいと願った。自分でも何をどうしたいのかわからなかったから。

 龍之介はポケットに手を突っ込みながらあたりを歩いていた。私の側に来ようとして、けれど、躊躇っているようだった。私は龍之介を拒否していた。近寄らないで。そんな感情が体の強張りから滲み出ているのだろう。

「奈都」

 沈黙を破り、龍之介が私の名前を呼んだ。私は声を出さぬまま、振り向いた。すると、目の前には龍之介の胸があった。私はそのまま龍之介に抱き締められた。

 龍之介のTシャツの感触が頬にさらさらと当たる。昼間の内に吸い込んだ太陽の熱がまだ残っているかのように、龍之介の体は熱かった。包み込まれる腕の大きさも、胸板の厚さも、日焼けで少しざらついた皮膚の感触も、全てをくまなく覚えていた。けれど、私の体は相変わらず強張っていた。

「昨日、すぐ会いたくて行って。早過ぎるわって自分でも思ったけど。今日もずっと会いたかった。来てくれんかと思ってた」

 龍之介の言葉が耳元近くの頭上から降ってきた。

「そんな事ない」

 龍之介の胸の隙間からくぐもった声で小さくそう言った。龍之介が顔を見なくてもわかる程、嬉しそうな声でこう言った。

「本当?」

 それを聞いた瞬間、喉元にせりあがるように感情が湧いてきた。本当だ、本当なのだ、と胸の内で叫ぶ。同じ気持ちだ。けれど、私は。

「龍之介」

 意を決して言った私の声に驚き、龍之介は腕の力を緩めた。私は龍之介の胸を静かに押した。それだけで龍之介は軽くよろめいた。大した力など私にある筈はないのに、まるで心がそうさせているかのようだった。龍之介のぽかんとした顔は子供のようで、けして傷付けてはならないものに見えた。けれど、私はこの言葉を口に出した。

「私、二週間後に帰る」

 変わらずに龍之介はぽかんとしたままだった。しんとしたあたりに海風がさぁっと吹く。伸びっぱなしの雑草が揺れ、シダがメヒルギが梢を鳴らす。何処からか百合の匂いがした。エラブユリかな、とふと思った。まだ季節ではない筈なのに。

「なんで」
 龍之介がぽつりとそう聞いた。私はそれで何故なのだろうと自分に対して思った。何故なのだろう。それはもう決めたから、としかいいようがなかった。もう決めてしまったから。

「そういう契約だから」

 私はそう言ってお茶を濁した。そんなもの、いくらだって伸ばせるということは龍之介だってよくわかっているだろう。けれど、私はそう言うしかなかった。

「もう決めたのか」

 龍之介が俯いたまま言った。私は言葉なく頷いた。

 龍之介が私に対して、島に残れと言えない事は知っていた。まだ私達はそれ程の関係ではなかった。そして、龍之介は今自分の事で手いっぱいだ。私に残れと言ってそれで何が出来るのだろう。そう考えると身動きが出来なくなる筈だ。何も言えなくなる筈だ。

 では逆に、私が龍之介に対して東京に来いと言えばいいのだろうか。けれど、私はそれを言えなかった。言える筈もなかった。そして、龍之介も私がそう思っている事を知っていた。

 残酷な事はわかっている。けれど、私は島にいる龍之介が好きなのだ。何処までも青い海と空に囲まれた港で、さとうきび畑に囲まれたただひたすら真っ直ぐな島の道路で、騒がしい週末の知名の町で、上級生との野球の試合で、町民運動会で、開けっぴろげに何も怖いものなんてないような調子で笑う、龍之介が好きのだ。

 慣れない土地、誰も知っている人間がいない都会に、仕事も何もかも全部捨てて龍之介が来ても、私に一体何が出来るだろう。私は、東京で磨り減って疲れていく龍之介など見たくはなかった。そして、私のその感情を龍之介もよくわかっていた。

 続く沈黙が苦しかった。けれど、謝罪の言葉すら口に出せなかった。そうしたら龍之介は「いいよ」と言うしかない。そんな言葉しか許さない問いかけなど出来る筈もなかった。

 島の男は、内地から来ている女など軽く食って捨てられるようにしか思っていない。けれど、それは内地から来ている女もそのように島の男を扱うからだ。今の、私のように、振り絞るような龍之介の言葉にすら答えられず。
龍之介が遠く離れて見えた。あと一週間。脳裏に点滅するかのようにこの言葉が浮かぶ。そう思ったら、私は龍之介の体に抱きついていた。

「龍之介」

 名前を呼んだ。名前を呼ぶだけでよかったのに。今まではこんな風に抱きつく事などなかったのに。けれど、知ってしまった今は、私はもっとが欲しかった。だから、私はそれを誘う為に名前を呼んだ。顔を見上げ、唇を薄く開け、簡単に口付ける事が出来るように。

 龍之介は一瞬呆けて私を見下ろした。それから、私の肩を静かに押した。先程、私がしたのと同じように。

 私は自分がそうされてみて、初めてそれがどれだけ切ないものなのかを知った。触れたいのに触れられない。会いたいのに会えない。たったそれだけだ。それだけだと言うのに私は身を切られるかのような痛みを覚えた。だから、切ないというのだ、と私は理解する。こんな風にただ軽く肩を押されただけで体中、切り裂かれたような気持ちになるから、切ないと言うのだ。

 龍之介がこちらを見据えた。吊り上った眉の下、険しい瞳が私を刺した。雲が月を隠した。私は龍之介を見上げた。龍之介が私の視線から顔を背けた。

「なんでそんな事出来る」

 龍之介がぽつりと呟いた。

「今、お前の事抱くのは簡単よ。だけど今そうしたってお前帰るんだろ」

 私は息を呑んだ。それ以上、その先を聞きたくなかった。けれど、龍之介はそのまま言葉を続けた。

「帰るまでだけって、それだけって、そんなの耐えられないっちょ」

 無言の私に龍之介は、怒りを押さえ込んでいる重苦しい口調で続けた。

「勝手過ぎる」

 勝手なのはわかっていた。けれど、私はそれでもそうしたかったのだ。抑えられなかった。龍之介だって、同じように思っている筈だ。ならば、せめて今だけでも。

 私は言葉を続けた。

「だって、よくある話だって龍之介言ったじゃない、それなら」

 そこで、龍之介がばっと顔をげ上た。目が一直線に私を見ていた。お前、と言いかけて龍之介が口を閉じた。唇が震えていた。私から視線をそらしたまま、龍之介が言った。

「よくある話ってそんな訳ないっちょ」

 風が首の後ろを撫でていった。私は、龍之介が何を言おうとしているのかわからないまま、言葉を待った。

 龍之介がまくしたてるように言った。

「よくある話にここまで出来ん。俺、前、言ったろ。なんで昼も夜も働いてるかって。俺、今、女の事なんか正直構ってられんよ。だから、飲みにもお前が来るまで全然行かんかった。お前がいるから行ってたのよ。お前に会いに行ってたのよ」

 激昂した声だった。いつも笑っていた龍之介のその声は、私の胸をばさばさと切り刻むように痛ませた。裂かれた部分から溢れた血が零れるように、私も声を張り上げた。

「私だって龍之介をずっと待ってたよ。いつも龍之介に会えて嬉しかった」
「だったら」

 龍之介はそう言い、けれどその先は続かず、自分の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。もう、と叫ぶように言う。そしてその激しさのまま、龍之介は私を抱き寄せた。私は龍之介の唇に唇を押し当てた。

 唾液も舌も互いに混ぜ込み合うようなキスをした。もう他の事など何も考えたくなかった。服の間から、手が入ってくる。けれど、その手がすぐさま止まった。私は、それに驚き、龍之介から体を少し離した。もう一度、口付けようとする。しかし、それを龍之介は避けた。

「俺」

 呻くように龍之介が言った。私は、顔を近づけたまま、龍之介の次の言葉を待った。龍之介が私から顔をそらして、砂浜を見ていた。呟くように言った。

「どうしていいかわからん」
「してよ」

 私はそう言った。龍之介は顔を背けたまますぐさま答えた。

「無理よ」

 私は首を何度も横に振った。嫌だ。龍之介を見上げ、そう繰り返す。龍之介も首を横に振った。私は龍之介が首を横に振るのを両手を使って止めた。そうしたら、龍之介は私の手首を掴み、言った。

「だってお前、帰るんだろ」

 私はそれにまた首を横に振った。目尻に滲んだ涙が何処かに消えてくれるように祈った。祈りながら、私はこう答えた。

「知らない」

 龍之介が呆れたように言った。

「何だそれ」
「知らないよ」

 私は同じ言葉を繰り返した。知らない。知らない。知らない。何度もそう繰り返す。そんなものは知らない。知りたくない。今は。

 そう言っていたら、龍之介が私の手を下ろさせながら、そっと呟いた。

「ずるいわ、お前」
「ずるいよ」

 そう言った。掴まれていた手を振り払い、私は龍之介の髪を撫でた。もう一度呟いた。

「ずるいけど」

 その声は既に泣きそうで、私はそれを堪えた。泣いていいのは私ではない。けれど、顔が歪むのを抑えられなかった。龍之介は、私の額に額を合わせ言った。

「ごめん、悪かった」
「龍之介は悪くない」
「いや、俺が」
「龍之介は悪くないよ。私が」
「もういいっちょ」
「嫌だ」

 龍之介の胸を拳で叩いた。もう一度、言った。

「嫌だ」

 離れたくない離れたくない離れたくないと体中が言っていて、まだ会いたい明日も会いたいしあさっても会いたいと今にも唇から零れそうで、けれど、それはけして私が言ってはいけない言葉だから、私は唇を引き絞った。けれど、そのくせ、瞳はだらしなく全てを語っているのだろうから、私は龍之介の肩に頭を乗せて、それが見えないようにした。龍之介は本当は全部を既に知っていて、きっと最初からこうなる事がわかっていて、そして、私もその事を知っていた。ならば、同じだけずるくなれればいいのに、龍之介はそうはせず、だから、私はなす術がなかった。

 涙の隙間から見る灯台が綺麗で、私はくるくると回る光を目で追いながら、こんな綺麗なものは見た事がない、と龍之介に言った。それを口に出すと龍之介は「東京にはもっとすごい夜景なんてたくさんあるだろ」と笑った。龍之介は、まだ龍之介の体にしがみつく私をそっとあやすように揺らした。私はその温かい感触に体中溶けていくような気持ちになりながら、本当だよ、と呟いた。こんな綺麗な景色は見た事がないよ、と。

 お台場や、みなとみらいの夜景は計算された景色でしかない。誰かが意図した感動など、空々しいだけだ。この島の灯台は、ただその場に必要だからここにある。けれど、東京から成り行き任せでここに来ただけの私の心を、今、こんなにも打っている。忘れたくないものは、苦しんでも胸に刻み付けたいものは、いつも、不意打ちで胸をえぐる。

 この今の薄暗闇に浮かぶ龍之介の横顔、左手から聞こえるかすかな波の音、まだ昼の暑さをふくんだ空気、濃い緑の匂い、風にかき乱される梢の音。全て、丸ごと、いつかその記憶に押し潰されてもいいから覚えておきたかった。忘れないでいる事しか、私には出来る事がないから。
 
 それから私達は無言のまま車に乗り込み、龍之介は黙って車を走らせ知名へと戻った。帰り際、私は「またね」と言った。龍之介はそれに答えなかった。エンジン音が躊躇うように二回した。けれど、龍之介は何も言わずにその場を去っていった。

 アパートの前の道で私は立ち止まった。私は龍之介を傷つけた。その言葉がようやく自分の中で組み立てられて、私はそれに呆然とした。一番傷つけたくなかったのにどうして。そう思うと胸がきりきりと痛んだ。それでも、ただ体が龍之介の感触を覚えていて、もっと欲しいと言っていた。なのに、私は東京に帰るのだ。帰る理由など本当はありはしないかもしれないのに。

 島で知り合った男達は口を揃えてこう言う。「この島には何もない」。その言葉を聞く度に私はいつも思った。じゃあ、東京に何があるって言うんだろう。私はいつも、手のひらから零れ落ちるものをただ眺めていただけだ。そう、それこそ雪のように、手に入れたと思ったものは頼りなく簡単に消え去った。消え去る為にあるものを追いかけて行くのは刹那で楽しいけれど、私は、もうそれに疲れてしまった。

 もうあのように雪を追いかける事など、疲れてしまってここに来たのだ。
 それなのに、どうしてここにいられない。

 ここには友達がいる。海がある。龍之介がいる。戻っても一人きりだ。大学に行き、絵を描く、ただそれだけ。そんなものはもう捨ててしまってもいいのではないだろうか。ここでただ海を眺めて暮らしていけばよいのではないだろうか。

 道路に吹く風がもう秋で肌寒い。夏服しか持ってこなかった私の手持ちの衣装ではもう辛い季節だった。夏は終わったのだ。既に次の季節が駆け足で忍び寄ってきている。

 私はアパートの階段を登り、部屋のドアを開けた。美優は布団にくるまり眠っていた。あと少し。様々に乱れる心を押し込めて私は眠りについた。

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私の作品紹介

忘れられない恋物語

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。