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【小説・MIDNIGHT PARADE】[20]I'm caught up (in a one night love affair)


「美春ちゃん、昨日来てたよ」

 いつもの誰かからそんな電話が来た日の夜、一之瀬は、久しぶりに『ajito』に顔を出した。あの、いかれた女と男を間近で見た夜から、一之瀬は『ajito』に行っていなかった。もう、夜に巻き起こる事の全てにうんざりしていたのだ。しかし、やはり、美春と仲違いをした事は一之瀬の中でくすぶり続けていて、それだけは何とかしたかったのだ。

 昨日の今日だからいないかもしれないけれど。そんな風に思いながら、店内に入る。きょろきょろとあたりを見回しながら店の奥へと進む。その時、音楽の隙間から会話の断片が聞こえた。

「別れる?」

 苦渋に満ちた男の声によって湧き出た野次馬根性で、一之瀬は、にやにやしながら振り返った。そこだけ暗く沈んで見えるような隅の一角にいたのは、美春と虹男だった。

「ここでこんな話しないでよ」

 苛立たしげにそう言い、グラスをテーブルに置いた美春が目の前をすり抜けていった。うなだれた虹男と、美春の後ろ姿を交互に見て、一之瀬は逡巡した。お節介は柄じゃない。でも。そう思った瞬間、一之瀬は美春を追いかけ、走り出していた。

「美春!」

 足早に駅の方へ向おうとする美春に大きく声をかけた。勢いよく振り向いた美春の目は明らかに怯えていて、一之瀬はそれに驚いた。瞬間、街頭の灯りに照らされた美春の頬が目に入った。青黒い痣が広がっている。それを見て、一之瀬はその恐れの意味を理解した。

 こちらの姿を見て、拍子抜けしたように美春が呟いた。

「なんだ、一之瀬じゃん」
「なんだじゃねぇよ」
「今から行くとこ?」
「さっきまでいたよ」
「もう帰るの?」
「追いかけてきたんだよ」
「なんで」
「お前らの会話、全部聞こえてた」

 瞬間、美春の顔が赤く染まった。しかし、それはすぐに引っ込められた。顔を皮肉に歪めて美春が言った。

「人の恋路に首突っ込む奴は、馬に蹴られて死んじまえってね」
「そんな、今にもぶっ倒れそうな顔して、憎まれ口叩くなよ」

 美春が虚を突かれたように顔を上げた。自嘲するように笑い、頬を撫でていた。

「私、そんな顔してる?」

 これ以上何かを言ったら泣き出しそうな美春の様子に、一之瀬は、唾をごくりと飲み込んだ。

「あぁ」
「参ったな」

 力無く答えた後、のろのろとこちらに歩を進めてくる美春を見て、一之瀬は、あばらの隙間をこじ開けられたような痛みを覚えた。予期せぬその感情に押し出され、一之瀬は、言おうか言わないか迷っていた言葉を口に出した。

「お前ら、どうしちゃったの? その痣、どうしたんだよ」

 その声があたりに響いて宙に消えても、美春はしばらく口を空けたまま、呆けていた。聞いてるのかよ。一之瀬は、美春にそう詰め寄ろうとした。その時、美春が口を開いた。

「虹男にやられた。でも、虹男は悪くないよ。きっと誰だって、虹男の立場になったら私の事、殴るよ。当たり前だよ」

 それを聞き、一之瀬は、自分の顔が思わず歪んでいくのを感じた。殴られるのが当たり前。全く、わからない理屈だった。けれど、今、それを心から美春が思っているのはわかった。何よりも、今、美春がそれを信じきっている。それが一之瀬には堪らなく苦く、そして、信じられなかった。

「何だよ、それ」

 発した声が震えていた。美春が、その言葉に俯いたまま小さく笑いを漏らした。嘲笑のように見える冷たい笑いだった。

「何なんだろうね。私にもわかんない。どうでもいいよ。疲れた」

 一之瀬はその言葉を聞き、美春の肩を掴んだ。なんでなんだよ。どうでもいいなんて、なんでそんな。そう言おうとした瞬間、美春が一之瀬の胸に体を預けてきた。

 全く予想外の出来事に、一之瀬は体を硬直させた。美春の肩に置いていた手を万歳の格好で宙に彷徨わせる。状況が全く把握出来ず、おろおろとしている内に、美春の手が首の後ろに回ってきた。

「一之瀬は楽でいいよ。一之瀬に甘えたい」

 そう言って、唇を寄せてこようとした美春を、一之瀬は乱暴に押し戻した。

「お前、どうしちゃったの? 俺達、そういうんじゃねぇだろ。そんなもんじゃねぇだろ」

 一之瀬は美春の手を強く振り払いながら怒鳴った。こんな風に怒鳴るなんて面倒な事、絶対に今までしたくなかったのに。そう思いながらも一之瀬は、その時、怒りを抑えられなかった。

 美春が傷付いている、疲れているのはわかった。けれど、そんな風にだらりと寄り掛かられるのは許せなかった。お前はそういうのを嫌っていた癖に。だから、俺の事、見下していた癖に。

 そう言ってやろうとした。けれど、それを口に出す前に美春が笑い出した。
 快哉のように高らかに、息継ぐ暇なくひたすらに、美春は笑い続けていた。ひきつけのような笑いの隙間から滔々と喋り出す。

「私、もっと自分を嫌いになりたい。虹男が私の事、嫌いになるくらいに、皆から嫌われたい。一之瀬とやったら、最低じゃん。きっといろいろ諦められる。ってさ、こういう事言ってる時点で充分、最低か」

 そう言って、美春は白い喉をそらした。体を折り、腹を抱えて、笑い続ける。その姿をもう見たくなくて、一之瀬は道路へと視線を移した。

「そんなのに俺を利用すんなよ」

 俯いたまま、そう言った。自分の拳がぶるぶると震えていた。唇を強く噛んだ。額が、頬が、熱かった。

「ごめんね、最低で。殴っていいよ。虹男が、私の事を殴った気持ち、よくわかったでしょ。本当、無理もないって感じだよね」

 そう言い終わった瞬間、美春の顔が崩れた。その言葉を口の奥に押し戻したいと言うように、喉を強く掴んでいる。顔が、ぴくぴくと引き攣っていた。
 一之瀬は、拳を握り締めたまま、深く息を吐いた。唇を開けて言葉を捜すも見つからず、声を出せないまま口を閉じた。

 美春の手が一之瀬に向かって動くのが見えた。まるで、溺れた人間が救いを求めるかのような動きだった。それを確認した瞬間、一之瀬は彼女から背を向けた。

「一之瀬」

 美春が小さく呟いた。引き絞るように、続けた。

「私、もう、私が、嫌だよ」

 その言葉にも、一之瀬は何も答えられなかった。
 
 何処か店に入る気もせず、かといって『ajito』に戻る気も失せ、一之瀬はひたすらに明治通りを歩いた。路上ではしゃぎ、嬌声をあげている団体の横を足早にすり抜ける。歩いている間、何度も、虹男と美春の様子が脳裏に蘇った。そして、蘇る度、この言葉がぐるぐると怒りと共に回った。

 あいつら、おかしいよ。

 今までの一之瀬は、それこそ美春が言ったように「人の恋路に首突っ込む奴は馬に蹴られて死んじまえ」と思っていた。夜と酒に彩られた場所では、容易に恋、あるいはセックスが出来るものだし、それにいちいち関わっていたら、きりがない。自分に面倒が振りかからなければ、勝手に皆、好きにやればいい。それが一之瀬の基本的なスタンスだった。

 一之瀬を含む誰もが、同じように顔見知り程度の関係で、それ以上なんて求める気は更々ない。一夜限りの知り合いは、何度会ってもやはり一夜限りの関係なのだ。一之瀬は、それをよくわかっていた。

 だが、今、自分は、美春と虹男が駄目になっている事に怒っているのだ。我ながら不思議で一之瀬は怒りの出所を探そうと頭を捻った。

 虹男と美春。美春と虹男。ひたすらその言葉を繰り返していく。

 すると、散らかった頭から、すうっと浮かび上がるように答えが見えた。

 違う。美春と虹男の関係が駄目になっても、俺は別に構わない。俺は、ただ、美春が、駄目になっていくのが、嫌なんだ。

 「もっと自分を嫌いになりたい」。一之瀬は先程、美春が言った言葉を思い出した。一之瀬は、それで、美春が弱っているのがわかったし、その弱みにつけこんで欲しいのもわかった。けれど、きっぱりとそれをつっぱねた。俺は、俺なんかに懐柔される美春なんて嫌だ。そう考えて、一之瀬は、俺は美春が好きなのか、と思ったが、またも、それは違うと思い直した。

 一之瀬にとって、美春は、常に憎まれ口を叩いていなきゃいけないのだ。やたらと態度がでかくて、無意味に堂々としていなきゃいけないのだ。恐れるものなど何もないような、会ったばかりの頃のままでいなきゃいけないのだ。いつも、いつだって、そうでなければいけないのだ。

 何故なのかはわからない。けれど、それは、絶対的な確信だった。

 その美春への理想像は、実に身勝手な押し付けだった。そんな一之瀬の気持ちは、美春には全く関係ないものだ。一之瀬はそれもわかっていた。けれど、それの何処が悪いんだ。一之瀬は、そう開き直った。

 足を止めて、空を見上げる。俯いて歩いていたせいで貧血気味になっていた頭に血が通い、一瞬、立ちくらみがした。甘くぼやけた視界には、雲の上から、ささやかに輝く月が見えた。お前にはこれが見えないのかよ。一之瀬は美春に問いかける。

 月がそこにあるように、それはとても簡単な事なんだ。相手の思いを受け入れて、ただ笑う、それだけでいい。それだけの事なのに、どうして、虹男がお前の事を嫌いになるまで、お前がお前の事、傷付けなきゃいけないんだよ。
 
 何故、自分がここに来たのかはわからない。けれど、翌日、一之瀬は大学の構内にいた。明け方まで渋谷界隈をうろつきまわったせいで、体の節々が痛んでいた。久々に来た大学は既によそよそしい顔で、留年確定で先行き未定という中途半端な立場である一之瀬は、はぐれたような気持ちで校内をうろついた。見知った顔に出くわすのを避け、校内の隅へ行く。ゴミ捨て場の近くにあるベンチに腰を下ろした。何だかやたらと晴れた空を見上げながら、買ってきたサンドイッチと缶コーヒーを取り出した。

 いくら家に帰りたくないからって、本当、俺、何してんだか。一人思いながら、ビニールのパッケージを開け始める。すると、後ろにある茂みからがさがさと言う音が聞こえた。

「うわ、びっくりした」

 茂みの中から出てきた男が、驚いた顔で言った。何だか見た事がある顔だ。同じ学校だから当然か、と思いかけた所で、一之瀬は思い直した。違う、明るい所で会った感じじゃない。しばらく男の顔に、じっと目を凝らした。ふと閃くものがあった。そうだ、『ajito』でよく見る顔だ。

「こんな所で何してるの?」

 男は、上着の肩についた葉っぱを払うと隣のベンチに腰を下ろした。ポケットを探り、煙草を取り出す。続いてライターを探しているが見つからないようだ。一之瀬は、自分のライターを差し出した。

「ありがとう」

 男が当然のようにそれを受け取り、煙草に火をつける。しばらく無言のまま、時が過ぎた。

「そっちこそ、ここで何してるんだよ」

 沈黙に耐え切れず、そう聞き返した。すると、男は苦笑いを漏らしながら、答えた。

「お前は気付いてなかったかもしれないけど、俺もここの学生なの。で、昼飯はいつもここで食ってる。そしたら、さっき書類飛ばされちゃってさ。んで、探しに行ってたの」
「なんで今まで『ajito』で声かけなかったんだよ」
「えー。だって、お前、俺は常連なんだぜって感じだったし、学校でも話した事なかったし」

 男にそう言われ、一之瀬は俯いた。確かに、この男は自分よりも後に『ajito』に通い出した連中の中にいて、一之瀬はその中に入る気など更々なかった。若い奴らが騒ぎまくって。いつもそんな風に思っていたのだ。

「お前、何年なの?」
「三年」
「同い年かよ」
「うん」

 何だよ、もう。一之瀬は、脱力した気分でそう思った。結局、自分は家と学校と『ajito』ぐらいしか世界がないのだ。それしかないのに、他の誰かとは違う、お前らとは違うなんて気分でいる。そうしたら、こんな風にひょいと言われてしまうのだ。お前なんて所詮、張子の虎だろ、と。

「最近、『ajito』行ってる?」

 男が何も気にしてないような調子で聞いてきた。一之瀬は本当はすぐさまここから立ち去りたかった。しかし、上手く場を切り上げる方法が見つからない。仕方なく手短に答えた。

「あぁ、昨日行った」
「どうだった?」
「いや、ちょっと用があってすぐ出たから」
「お前、本当よく行ってるよな。単位、大丈夫なの?」

 世間話の延長のようにさらりと聞かれた言葉に、一之瀬は固まった。学校に話し相手がいない一之瀬は、今まで、こういう話題になる事がなかったのだ。言葉に詰まる。だが、嘘を吐くのも馬鹿らしく感じられて、一之瀬は覚悟を決めて言った。

「いや、やばい。留年確定だよ、俺」
「マジかよ」

 男が目を丸くしてこちらを見た。一之瀬は、その視線から目を逸らし俯いた。男が質問を重ねてくる。

「大丈夫なの? 親とか」
「全然、大丈夫じゃない」
「あーあ、どうすんだよ、もう」
「どうしようかなー、と思ってさ」
「で、行き場なくてとりあえず学校来てるの? 寂しいなー、お前」

 男が、笑いながらそう言う。言い返す言葉も浮かばず、一之瀬はため息を吐いた。その様子を見て男がまた笑った。大きく伸びをして、こう言ってきた。

「まぁ、でも『ajito』楽しかったんだろ? いいじゃん」

 他人事だと思って。一之瀬は、そう思いながら、投げやりに息を吐いた。もう相手にどう思われるかなんてどうでもよかった。膝に頭を埋めて呟く。

「よくねぇよ、本当。何もかも、どうすればいいのかわかんねぇよ」
「じゃあ、俺と一緒に来る?」

 そう言って男は一之瀬の膝の上に一枚のパンフレットを投げた。パンフレットには『日本留学斡旋センター』と書いてあった。

「俺、来年から留学するんだよ」
「何処に?」
「NY希望してるけど、LAでもいいかな、と考え中」
「なんで?」
「うーん」

 男がしばし首を捻り、言葉を探している間、一之瀬は、パンフレットをじっと見詰めた。そこには笑いさざめく様々な国籍の人々や、NYの夜景、オーストラリアの海などの写真が散らばっていた。胡散臭い気もしたが、そこは何だか今いる世界よりずっと輝かしく見えた。

「まぁ、とりあえず英語覚えておくかってのと、留学してましたってのでハクつけておこうかなってのと、後は、月並みだけど、いろんな世界を見たいって所かな」
「見て、それからどうすんだよ」
「それから考える」

 将来設計ばっちり風に語っておいて、それかよ。一之瀬は興ざめした気分でそう思った。結局そんなもんじゃねぇか。巻き返しのチャンスを得た気持ちで、男に突っ込んだ。

「お前も結構適当だな」
「そりゃそうだろ」

 あっさり肯定され、一之瀬は拍子抜けした気分になった。

「それでいいのかよ、お前。俺達、もう三年なのに」
「何処も一緒だろ」

 男は、足をぶらつかせ、相変わらずの飄々とした調子で、続けた。

「何処も別に一緒だろ。やりたい事がある奴なんて滅多にいないの、お前だってわかるだろ。だったら、その間に留学でもしといた方がいいかなって。時間稼ぎだけどさ、とりあえず留年よりはいいじゃん」

 言い訳がましい言葉を初めて男は口に出した。それでも、それは正直な気持ちだ、と一之瀬は感じた。少なくとも自分よりは。

 興味があるなら学生課に聞いてみろよ。そう言い残して男は立ち上がった。校内へ戻りかけて、思い出したように一度、振り向く。

「あ、でも、それで失敗しても、俺は責任取れないからね。そこんとこよろしく」

 からかうような調子で言われ、一之瀬は笑った。俺、そんな風に見られてるんだな。そう思うと、何だかやけに爽快だった。もう一度、宙を向いて笑う。何もないと認める所から、何かが始まるのかもしれない、と思った。
 
 ここ半年、一之瀬の夕食は『ajito』に行く前に何処かで外食するか、適当にその辺で買ってきたものを自分の部屋で食べるかだった。両親が揃う席にいるのが気詰まりだったし、夜は色々とやる事があったのだ。しかし、一之瀬は今日、意識して夕食に間に合うように家に急いだ。

 リビングに行くと、テーブルには、当たり前のように一之瀬の分の食器と箸が用意されていた。この半年、ずっとこうだったのだろうか。横目で両親を盗み見ながら、一之瀬は、使われない皿を目の前にして食事をする気持ちを想像した。使われなかったそれを片付ける気持ち、今日もこれは遣われないだろうと思いながらも、それを用意する気持ち。それらに思いを馳せたら、もう、何も言えなかった。

 無言のまま、席に着いた。すると、ごくごく普通に、茶碗に盛られたご飯を手渡された。一之瀬は、それを持って、しばし固まった。

「冷めるぞ。せっかくの炊き立てなのに」

 怪訝な顔で父が言った。一之瀬はそれに答えられないまま、じっと茶碗の中を見た。白いご飯はつやつやと光っていた。こんな飯を見るのは久しぶりだった。そして、炊き立てなんて言葉を聞いたのも久しぶりだった。

 せっかくの炊き立て。ついこの前までなら、そんなものをせっかくだなんて言う父親を一之瀬は貧乏臭いと思っただろう。しかし、今、その言葉は、妙に眩しく感じられた。父は、こういうものを特別に扱えるのだ。何百万も金を使わせて留年する息子のために働きながらも、そんな風に思うのだ。そう考えると更に何も言えなかった。一之瀬は、飯を口に放り込んだ。

 食事など、外食とコンビニで充分だと思っていたし、実際それで何も支障はなかった。けれど、やはり、炊き立ての飯は美味かった。悔しいけれど、美味かった。

 お代わりをしたら、言おう。一之瀬はそう思いながら、飯を頬張った。
 
「すっげえ、調子がいいのはわかってるんだけどさ」

 意を決して言うと、父が顔を上げた。一之瀬は、その視線を避けて、言葉を続けた。

「俺、留学したいんだ」
「何処に」
「アメリカ。出来れば、一年くらいはいたい」
「何で」

 一之瀬は、そこで顔を上げた。父の顔をまともに見るのは気恥ずかったけれど、意識して視線を固定し、つっかえながらも話し出した。

「俺、俺もさ、このままでいいなんて思ってないんだよ。でも、どうしたらいいのかわかんなくてさ。考えたんだ、色々。こうやってだらだらしてたら駄目だろって自分でも思ってたし。だから、一人で何かやらなきゃって」
「それで留学なのか」

 父が厳しい目をして、そう言った。思わず下を向きたくなる。けれど、それをぐっと堪えて一之瀬は言葉を続けた。

「安易かもしれないけど。留年して今の大学いるよりはいいと思うんだ。とりあえず語学力はつくし」

 父が腕を組み、無言でこちらを見ていた。その視線で一之瀬は自分の言葉の説得力のなさを痛感した。駄目な奴はどんな大言吐いたって駄目なんだよな。そう諦めかけた所で、気付いた。そうやっていつもすぐに諦めるから駄目なんだよ。

 一之瀬は、椅子の上で正座をし、頭と手をぴたりとテーブルにつけた。

「無理ならいい。俺の言ってる事、信用出来ないのも仕方ないと思う。土下座したって無理だと思う。でも、俺、今度こそちゃんとやる。ちゃんとするよ」

 自分の姿が、余りにも格好悪いと思った。土下座なんて、古臭過ぎると思った。親に頭を下げるなんて、今までは死んでもしたくなかった。けれど、そうやって逃げ続けている方が格好悪いのだ。一之瀬は、頭を下げ続けながら、そう思った。

「お前」

 父の声に顔を上げる。厳しい言葉が返って来るだろう、と一之瀬は身構える。父が、真顔のまま、口を開いた。

「椅子の上じゃ土下座にならないぞ」

 そう言うと、父が箸を持ちながら、笑い出した。くっくっと呻きながら、テーブルに肘をつく。しばらくして、ついに横腹を抑えて笑い出した。笑い続ける父に、一之瀬は呆気にとられて聞き返した。

「えっ、そうなの?」
「そうだろ。土下座って言うくらいなんだから、土に下りないと。お前、営業は絶対無理だな」
「営業って土下座すんのかよ。じゃあ、親父も土下座した事あんの?」
「あるよ、何度も。得意技だ」
「そんな得意技、微妙だろ」

 気がつけば、会話は、いつもの『ajito』での誰かとのかけ合いのようになっていた。父はずっと一之瀬の一般常識のなさを笑っていた。そして、一之瀬も、家の中でも同じ役回りの自分にうんざりしながらも笑っていた。知らず知らずの内に、笑っていた。

 ひたすら笑って笑った所で、父が言った。

「こんな何も知らない奴に出入国許可が出るのか不安だな」

 言葉の意味がよくわからず首を傾げる一之瀬に、父が呆れたようにため息をつきながら、言った。

「行ってこい。入学前から渡米しろ。語学学校に行って言葉を先に覚えて、学校では語学以外の事を身に着けろ」

 ぽかんと口を開けた一之瀬を父は面白そうに見やり、言った。

「お坊ちゃんはこれで最後にしろよ」

 一之瀬はその言葉に、慌てて椅子から下り、正しい土下座をしようとした。しかし、この間ずっと椅子の上で正座していた足は痺れていて、その気持ちについて来てくれなかった。テーブルに手をついた瞬間に箸が散らばり、茶碗が宙を舞う。一之瀬は無様に床に落下し、頭から白飯をかぶった。

 ひっくり返って白飯にまみれた一之瀬を見て、父は笑った。

「何も知らない上にタイミングも悪いのか…。せめて、どっちかは何とかして帰って来い。留年した分な」

 一之瀬は、白飯にまみれたまま、頷き、言った。

「ああ、絶対。追いついてみせるよ」


はい、今回の曲はこちら!

SOUL TRAINバージョンも見つけたから貼っておきます。みんな、こんな感じで踊ってたなあ。

ああベイビー

ある夜の恋愛に巻き込まれた
真の愛が私を見つけることを願っています
ある夜の恋愛に巻き込まれた
再び愛を必要とする、それは私がそうである方法です

入れる前に
言いたいことが1つだけあります
ふりをする必要はありません
これが別の方法で終了すること

明日は目を覚まして、途中で
今夜あなたが言うことをすべて忘れてください
だからこそ

ある夜の恋愛に巻き込まれた
真の愛が私を見つけることを願っています
私が一夜の恋愛に巻き込まれているのがわかります
再び愛を必要とする、それは私がそうである方法です
I'm Caught Up (In a One Night Love Affair)【FLOWLEZ】

本当に巻き込まれてんな……、一之瀬。

としか言えない。

直訳するとタイトルは、I'm caught upが私は追いつかれた、(in a one night love affair)一晩の恋愛に、というところですかね。

しかし、一之瀬のいいところが全面に出ている回だなあ、と我ながら。一之瀬って要はおぼっちゃんなんですよね。吉祥寺あたりにかなり広めの持ち家があるMARCHあたりの大学生という感じかな。

だから、夜に起こる色々を見ていても、巻き込まれて身を持ち崩すまでいかないというか行けないというか。要は価値観が真っ当なんです。

若さ特有のイキってるところはあるけれど、前回でも話した捻れた孤独感
がないんですよね。

ちなみにこの一之瀬には明確にモデルがいて、Yくんって言うんだけど、まじで留年からの留学コースで海外に行きました。Yくん元気かなー、久々に会いたいな。

もし、これ見てたら連絡くださいな。

引き続き更新していきます。ご感想お待ちしてます!


いただいたサポートは視覚障がいの方に役立つ日常生活用具(音声読書器やシール型音声メモ、振動で視覚障がいの方の歩行をサポートするナビゲーションデバイス)などの購入に充てたいと思っています!