【小説・MIDNIGHT PARADE】[14]GIVE ME THE NIGHT
「相変わらずじゃん」
いつもの面子のいつもの挨拶。一之瀬は、それに笑ってこう返した。
「そうだな。元気にしてるよ」
相変わらず。一之瀬は今言われた言葉を一人胸中で繰り返した。相変わらずここに来ている。そう思うくらいなら来るなよ、と自分に突っ込むのにも、もう飽きた。それでも、まだここに来てしまっている。
「そういえば、美春は最近来てないの?」
一之瀬は、何気ない素振りを意識して本当に聞きたい事を口に出した。いつもの金曜日の常連がそれに答えた。
「最近、見ないな。彼氏出来たらしいから控えてるんじゃん」
一之瀬は、その答えに小さく肩を落とした。
ここで美春と会い、いつものように騒げば、あの日に出来たわだかまりも解消する筈だ。そう思って、一之瀬はここ最近『ajito』に前よりも頻繁に顔を出すようにしていた。しかし、今のところ、全くそれは報われなかった。
ここの常連は数多くいて、それぞれが皆、顔見知りだ。しかし、ここに来るようになった時期やよく来る曜日などで、その中でも何となくグループが別れている。そしてまた面倒な事にその来るようになった時期が早ければ早い程偉いというような風潮もあった。
今、一之瀬の周りには、自分より随分前から『ajito』に来ている人々か、自分より後から『ajito』に来るようになった人々しかいなかった。自分より前からの常連は、随分と年上で何だか近寄りがたい。かといって、新参者のグループにのこのこ「仲間に入れて下さい」というように近付いていくなど負け犬のようで嫌だった。そういう訳で、ここ最近の一之瀬は、誰かから声をかけられる事はあっても、結局、帰る時はいつも一人、という感じで『ajito』での日々を過ごしていた。
騒いでいる人々の輪に入り込めないまま、一之瀬は、つい最近の事をまるで遠い昔のように思い出した。『ajito』の営業終了後、尚子や美春と近くのデニーズに行った時。寝不足と酔いでぐらぐらの頭で何故かしりとりを始めた三人は、妙に真剣になってしまい、結局そこに三時間いた。美春が「ケロヨン」と言いかけ、慌てて「ケロンパ」と言い換えた事を、一之瀬は思い切り責めた。しかし、その後、彼は、パで始まるが思いつかず美春に「大学まで行ってそれかよ」と反撃を受け、しかも、やっと思いついた言葉は「パンプキン」で「英語にしたって最後ンじゃん」と冷静に尚子に突っ込まれたのだった。
あの頃はあの頃で何だかんだと文句言ってたけど、楽しかったよな。今、一之瀬は素直にそう思う。そんなこの上なく無駄な時間。けれど、そういった無駄な時間を一緒に過ごせる相手は滅多にいないものだ。見つかったなどと気付かないまま、あの頃には、そんな相手がいつもいた。けれど、今ではそれすらなかった。くだらない話すら出来やしなかった。
いつもは始発がある時間になっても、店の営業終了まで一之瀬はずっと『ajito』にいた。けれど、今日は始発の時刻と同時に店を出た。ここにいる事がもう嫌だった。今までは、店にいる間に落ち込む事はあっても、酔いに身を任せてみたり、何だかんだと騒いでいる内にそれは随分と軽減されていた。しかし、今、一之瀬はもうやけくそで酒を呷る事すら出来なかった。酔う前から酔っ払おうとしている自分に嫌気が差して、酒が飲めなくなってしまうのだ。
帰宅してすぐに敷きっぱなしの布団に潜り込んだ。何だか、疲れたな。そう思った。体力の限界まで遊び回って帰宅していた頃には、そんな事を感じる暇もなく眠りについていたというのに。訪れない眠りに苛立ちながら、一之瀬は目を閉じた。
「今、起きたのか」
しまった。頭上から響く冷たい声に、リビングにいた一之瀬は筑前煮をつまむ箸を止めた。大手家電メーカーの子会社で営業をしている父は、土日も接待だ、得意先からのクレームだ、で、この時間にいる事など滅多にない。予想もしていなかった父の出現に、一之瀬は焦りながら自分の姿を確認した。この寝癖全開の頭、寝起きばればれの顔、寝巻き姿。何か言われる事は目に見えている。
「あぁ、昨日レポート遅くまでやっててさ」
何食わぬ顔でそう言った。大丈夫な筈だ。父親の帰宅は、いつも深夜である。部屋に訪ねて来る事などないのだから、こちらの様子などわからない。しかし、一之瀬の楽観的な予想をよそに、父親はきつい視線をゆるめず言った。
「見え透いた嘘つくな。外に出かけたのはわかってる」
一之瀬は、その言葉を聞き、どんぶりをごとりとテーブルに置いた。こうして、成人したというのに夜に出かけた事を咎められている状況も、またそれを誤魔化そうと子供のような嘘をついた自分も、母親が作り置いた煮過ぎてちくわの形が崩れている筑前煮も、それを食べている自分も、何もかもが嫌だった。ちゃぶ台をひっくり返してやりたいような心境だった。しかし、今、一之瀬がいるのはやたらと重厚な木製、しかも五人がけのテーブルで、とても一人で動かせそうになかった。仕方なく一之瀬は無言で俯いた。すると、目の前にひらりと白い紙が落ちてきた。
「昨日届いた」
父が、低い声で言った。白い紙の一番上には大きなフォントで『留年通知』と書かれていた。
留年するだろうとは前々から思っていた。ほぼ毎日のように『ajito』に行き出してからは、帰宅するのは朝どころか昼になる事がほとんどだった。それから学校へ行くなど出来る筈がない。その上、『ajito』に行かない日でも、疲れたとか眠いとかだるいとか雨が降っているとかの理由で休み続けていれば、留年は当然の結果だ。しかし、そうわかっていながらも、やはりその字面は、一之瀬の目にやけにどっしりと映った。
こういうのって学生課とかで渡してもらえるもんじゃないのか。家に直接来るなんて困るんだよ。一之瀬は、学校のシステムを心中で責めた。そうすれば、少しは事態が軽くなるような気がした。しかし、いくらそう思い続けても、その字面は黒々と一之瀬の前にあった。
「こうなる前に留年しそうだって事はわかってただろ。どうして何とかしなかった」
そう言う父の口調からは、叱責ではなく、諦めが感じられた。責めてくれよ。そう思った。そう思う自分が情けなくもあった。けれど、正直な心境はまさにそれだった。自分で何かを決めなければいけない事に、一之瀬はもううんざりしていた。箸をテーブルに置き、一之瀬はただテーブルの木目を見詰めた。
「お前の学費、年間いくらか知ってるか」
父親の静かな声に、一之瀬は顔を上げた。確か、入学時に大量に渡された書類の何処かに書いてあった筈だ。しかし、一之瀬はその書類をほとんど見ずに、すぐさま母親に渡したのだった。今じゃもう学費の金額など記憶の彼方に消えていた。
「授業料やら何やらで年間百万以上かかる」
父が、なんて事はないように言った金額に、一之瀬は驚いた。物入りな時期にした短期のアルバイトではよくて一日一万円弱ぐらいしか貰えない。それでも丸一日、休む暇なく荷物を運んだり、ティッシュを配ったり、街頭で声を嗄らして新商品の宣伝文句を叫んだりしなければならないのだ。単純計算で言えばあの労働に×百の金額。それを、自分は、大して面白くもない大学に在籍する為だけに使っているのだ。
「無駄金だな」
一之瀬は、そう吐き捨てた。殊勝な言葉を言えば、この場をやり過ごせる事はわかっている。けれど、そうしたくなかった。冷静に話す父親が、何故か憎らしくて堪らなかった。いっその事、怒鳴りつけて欲しかった。しかし、父は、一之瀬のその言葉に、再び深くため息をつくだけだった。
「頼むから、これからどうするか、じっくり考えてくれ」
そう言い残して、父は自分の部屋に戻っていった。怒る事も出来ないのかよ。一之瀬は、父の後ろ姿に呟いた。
食事を終えると、部屋に戻り、一之瀬はまた布団をかぶった。しかし、さんざん眠った後だ。もちろん、眠れやしなかった。「これからどうするか、じっくり考えてくれ」。父の言葉が頭の中で繰り返し巡る。考えてる。考え過ぎてもうわけわかんなくなってるんだよ、俺。そう思うと、一之瀬は布団をはねのけ、起き上がった。
「行くのか」
身支度を終え、玄関で靴を履いていると、背後から父の声が聞こえた。一之瀬はそれに答えず、靴紐を結んだ。
「それでも行くのか」
父が発したのは、一之瀬自身がいつも『ajito』にいる時、自分自身に言う問いと同じものだった。一之瀬は一瞬、靴紐を結ぶ手を止めた。何かが胸によぎった。けれど、父の問いへの返答は見つけられなかった。何も言わずに、一之瀬は駅に向かって走った。
その日の『ajito』では、単発のイベントが行われていた。そのイベントの客層は『ajito』にいつもならいないような、荒くれた雰囲気の若者がメインだった。通り過ぎた女の腕をいきなり掴む、行く手をはばんで無理矢理に抱き締めるなど、乱暴に見える程、激しいナンパがあちこちで繰り広げられている。
「火、くれない?」
一之瀬の隣にいた男が、煙草を咥えながらそう言った。一之瀬は無言でライターを差し出した。
「さっき声かけた女が持ってっちゃってさ。やる気ねぇなら今日来るなって感じだよな」
男のその言葉で、このイベントは、ナンパからお持ち帰りコースを目的とした男女が集まるイベントなのだ、と一之瀬は納得した。どうりで。一之瀬は、周囲の荒んだ様子を見つつそう思った。
そのまま何となく男と話して、「家に帰るの気まずいんだよ」と言うと、男は「じゃあ家に来れば。俺も、もう帰るし」と言ってきた。どうにも家に帰りたくなく、かといってこの場にもいたくなかった一之瀬は、その言葉に甘える事にした。
「適当にソファとかで寝ててよ」
男はそう言うと、携帯を手にして外へと出ていった。乱雑に散らかった部屋には饐えた匂いが漂っていた。一之瀬は所在ない気持ちでソファに腰を下ろす。すると、埃が盛大に飛び散った。一之瀬はごほごほとむせながら、ソファをきしませないように注意して体を横たえた。
しばらくすると、男が女を連れて戻って来た。さっきのイベントで見た顔だ。フロアのど真ん中で派手に騒いでいたその女は、酒のせいだけとは思えない異常なテンションで、周囲から遠巻きに見られていた。今もそのテンションは続いていて、部屋に入るなり何がおかしいのか笑い転げている。
「こいつも行く所ないらしいからさ。ま、こんなんじゃ無理ないけどな」
男は声を顰める事もなくそう言った。女は、全くその言葉に気付いていない様子で笑い続けている。高らかに続く笑い声は明らかに異常な雰囲気を発していた。
「俺、こいつとやるけど気にしなくていいから」
「は?」
一之瀬は唖然として口を開けた。別の部屋があるならまだいい。だが、この家はワンルームなのだ。しかも、一之瀬がいるソファの三歩先にベッドがある狭さである。しかし、男は一之瀬の肩を叩いてこう続けた。
「大丈夫、大丈夫。こいつ、気付かねぇよ。有名なんだよね。いつも、頭いっちゃってて誰とでもやるの。今日は店の中じゃなくて部屋だからまだいい方なんじゃん」
何なら、俺の後にどう? そう言葉を続けた男を無視して、一之瀬は部屋を出た。女の笑い声が、ドアを閉めた後でも聞こえてくる。それを振り払いたくて一之瀬は歩を早めた。
男の家までタクシーで行ったので、今、一之瀬は自分が何処にいるのかわからなかった。当てもなくひたすらに歩いた。東の空は、既に白み始めていた。けれど、帰れなかった。帰る場所がなかった。
欲しかった夜の正体は、結局こんなものだったのだろうか。早足で歩きながら一之瀬は思った。そんなものはいらなかった。けれど、昼間にすらもう何もなかった。
えー暗いターンになってきたので、小説内に曲名が出なくなってしまった……。そのうち、どっかで訂正入れようかしら。まあ、今は当時のままで。
はい、今回の曲はこちら!
そう、まさにみんな夜が欲しいわけですよ! で、捧げちゃってたわけですよ! ほら、宵闇が降りる事になるとパーティの情熱が脈打つから!
が、しかし、憂鬱の投げ捨て方や身の捧げ方や少し遅い時間のロマンスや、それに伴う連鎖反応が、まあ、バッドな方向に行く時もあるのよね。しみじみ。
それも夜の醍醐味ではあるんですが、まあ、身の持ち崩しは適度にね、ぐらいしか言えないですよね……。自分も他人の事は言えないと、同じ時代を過ごした方は誰もが遠い目でしょう……。
とりあえず、こちらもめっちゃ格好いい名曲です。しかし、YouTubeは昔の曲もいっぱいあって嬉しいなあ。たしかこの曲はアナログ持ってたわ(激シブな女子高生)。
引き続き、ご感想いただけたら幸いです。
作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。