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【小説・MIDNIGHT PARADE】[15]リズム


『セックスでしか向かい合う事を知らない男は、終わった後、すぐに背中を向ける』。

 誰が言った言葉だったかは思い出せなかった。けれど、その通りだと尚子は思った。眼前にある白石の背中に向かって心の中で呟く。

 帰って欲しい事くらい知ってるよ。
 
 白石は先程からずっと無言のままだった。背中が強張っていた。それを見て尚子は、白石が自分から電話してきた癖に、既にそれを後悔している事を理解した。

「帰ろうか?」

 後ろを向いたままの白石にそう聞いた。いつもなら尚子は自分から「私、明日早いから帰るね」と言っていた。けれど、今はもうそのようには出来そうになかった。

「あぁ、いや…」

 言葉を濁す白石を横目で見た。

 中学生じゃないんだから、やったら女は用済みなんて事くらいうまく誤魔化せばいいのに馬鹿だね。

 そう言ってやりたかった。けれど、言えなかった。だから、尚子は白石が欲しがっているであろう言葉を言った。

「帰るよ」

 シャワーも浴びずに白石の部屋を出て、三軒茶屋の駅に向かった。既に時刻は夕方だ。町は今日の夕食の為の買い物に出た人々で賑わい、夕日がそれらを赤く照らし出している。

 尚子は、その中をただひたすら自分の足の爪先だけ見詰めて歩いた。俯き過ぎて、頭がくらくらした。それでも、顔を上げようとは思えなかった。

 呼び出されたらほいほい行って、やる事やったらすぐ帰る。便利だよね。本当、使い勝手がいいよね。尚子はそのように自分を笑う。

 結局そんなものなのだ。やるだけやって帰るなら、別に相手は誰だっていい。それなりに好みで便利なら、相手は誰だっていい。今の白石にとっては、それが尚子であるというだけだ。ただ、それだけだ。尚子はそう思いながら道をひたすらに歩く。
 
 あの日、白石のイベントの日、尚子は声をかけてきた男と、二人して『ajito』を出た。他の男といちゃつきながら、白石のDJを聞くのも一考だ、と最初は思った。けれど、どうにも耐え切れなかった。白石が、一度もこちらを見なかったから。

 男は、店を出てすぐに、道玄坂のラブホテル街に迷い無く向かった。だよね、当然。尚子は他人事のようにそう思った。もう決まり、セックスするのは決定。そんな風に男に思わせる振る舞いを自分はしたのだ。

 『ajito』のキャッシャーを通り過ぎる時に見た、スタッフの驚きの表情を思い出した。尚子ちゃん、そんな男とどうしちゃったの? そう言っていたかのようなあの目。尚子は、胸の中で一人繰り返した。

 どうしちゃったんだろうね。本当、私、どうしてこうなっちゃったんだろう。

 一人ずんずんと歩いていた男は、ホテルが近付くと、逃がさないというように尚子の肩を抱いてきた。その手を振り払う気すら起きなかった。男のなすがままに、ビニールのぺらぺらしたのれんをくぐって、ホテルに入った。そののれんがべたりと頬に張り付いた瞬間、尚子は猛烈な羞恥心に襲われた。

 せめてこっちを見て欲しくて、その為に、どうでもいい男といちゃついて。けれど、結局こちらを見てくれもしなくて、仕方なく、その日会ったばかりのどうでもいい男とうらぶれたラブホテルに入る。

 今、自分がしているのはこんな事なのだ。他に何もなくても、意地と見栄と虚勢しかなくても、こんな安っぽい事、格好悪い事だけは絶対にしないようにしてきたというのに。

「ごめん」

 尚子は、男の肩を押し、体を離した。

「え、なんで?」

 素っ頓狂な声で男は言った。何処からどう見ても、自暴自棄で適当なゆるい女、という振る舞いを自分はしていたのだ。そのつもりでいた男にしてみれば、この心変わりは青天の霹靂だろう。そう思い、尚子はちょっと申し訳ないような気分になった。

「悪いんだけど、やっぱり、やめておく」
「えー、今更?」

 男の素直な言葉に尚子は笑った。それぞれいろんな期待をして皆『ajito』に来るのだ。それは別に悪い事ではない。ただ、その期待が噛み合わなかっただけだ。彼が悪い訳でも何でもなかった。自分に向いていない事をした自分が悪いと尚子は思った。

「本当に申し訳ないんだけど、私はこういうの向いてない。出来たらいいな、と思ったけど無理みたい」
「やってみなきゃわかんないじゃん」

 男は勢い込んでそう言って、尚子の手を引きホテルに入ろうとする。尚子は何処までもポジティブなその言葉に、更に笑いを漏らした。

「私にはわかるの」

 それだけ言って尚子はホテルの入り口から踵を返した。
 
 けれど、今日の白石からの電話には、そのように背を向ける事は出来なかった。一度は無視出来た。けれど、もう一度かかってきた時にはもう逆らえなかった。今、この電話を取らなければ、二度と連絡を取り合う事がないような気がした。尚子は、画面に表示されている白石の名前を見ながら、額に手を当てた。けれど、答えは決まっていた。

 自分のみっともなさに気が狂いそうになりながら電話に出ると、白石は、開口一番「お前、電話出ろよ」と言った。それを聞いて尚子の目の端に涙が滲んだ。本当に白石はよくわかっていると思った。逆らえない、と思った。
 
 尚子は、レコードをつかむ白石の手が好きだ。ペンライトに照らされて黒く光る大きな盤を、慎重にターンテーブルに乗せる手。がさつに骨ばった関節の目立つ指を暗闇の中で目をこらして見る。尚子は、その度にその指が自分の中でどんな風に動いたかを思い出した。

 尚子は、ターンテーブルにレコードを乗せる瞬間の白石の目が好きだ。それを見る度、自分の体に触る時もこんな目をしていると思った。真剣で、けけど、少し何かを怖がっているような目。なのに、何故か冷酷で品定めをしているような目。検分して見極めて的確に、尚子の体をいじる時の目。
 尚子は、白石に、乱暴に扱われるのが好きだ。全ての感覚を支配されて、ただ涎を垂らして呻き声をあげたい。時には痛みを感じる程でもいい。痛みは何よりも強力なドラッグだ。忘れたいものを、全て忘れさせてくれる。
 そう、そのように、今日の白石のやり方は、いつもの今まで通りのやり方だった。しかし、尚子は、それを、今までのようには感じられなかった。

 足先が冷えていた。頬がかさついて、そればかりが気になった。白石の肩甲骨の横に出来ているにきびに触れた。瞬間、尚子はそれから手を離した。体のあちこちを這い回る白石の手に、眼前にある顔に、かかってくる息に、苛立ちすら覚えた。自分と白石がしている事が無様な絵空事のようにしか思えなかった。逃げ道にすらならないセックスだと思った。

 終わった瞬間、そそくさと体を離し、白石はシャワーを浴びに行った。その背中を見ていると、何故か、終わり、という言葉が浮かんだ。終わり、か。もう一度、心中で繰り返す。その言葉はがさがさと音を立てながら胸に迫ってきた。

 とりあえず、用意をしなければ。そう思いながら、尚子はベッドから起き上がった。体に残る白石の唾液や精液をティッシュペーパーで拭いた。ごみ箱を探して、裸のまま部屋をうろついた。そうしながら、女の痕跡を探そうとしている自分を自覚した。尚子は今まで認める事が出来なかったそんな自分を、寒々しい気持ちで認めた。

 やっと見つけたごみ箱には、案の定、メイク落としのチューブがあった。妙に静かな気持ちで、尚子は、今日彼女が来ていた事を推測した。白石がシャワーから出てきた。尚子も風呂を借りた。洗面台には長い髪の毛が張り付いていた。尚子はそれを指でつまんで捨てた。

 そうしている間、ずっと尚子は惨めだった。こうしている自分も、そして、こんな状況をわかっていながら、自分を呼び出す白石も、何もかもが惨めで無様でしかなかった。

 かつて、白石と初めて会った頃、ただいつもより長く会話をしただけでも、飲みかけのグラスを渡されただけでも、煙草を買ってきてと頼まれただけでも、煌いた、あの頃の気持ちはもう欠片もなかった。
 
 世田谷通りで足を止めた尚子の横を、若い男女を乗せた車が走り去って行った。車から漏れ出た大音量の音楽と嬌声に、尚子はびくりとして足を止めた。怯えたような気持ちで振り向いた。そこには、夕焼けだけが広がっていた。それを確認した瞬間、尚子の喉から嗚咽が漏れ出た。

 誰かに勝手に連れ去って欲しかった。何処かの山中で、靭帯を切られて動けなくしてくれてもよかった。それで、さんざんまわされて適当に捨てられてしまいたかった。自分で、自分がいらなかった。それが一番、自分にふさわしい処置だと思った。

 そうしたら、白石は、自分に対してきちんと向き合ってくれるのだろうか。ちゃんと罪悪感を背負ってくれるのだろうか。女に逃げた上で、更にその女からも逃げて、背を向ける事を止めてくれるのだろうか。今の自分と同じように、惨めになるのだろうか。

 尽きない疑問の答えを出せぬまま、尚子はその場でしばらく泣いた。
 
 もう、止めよう。尚子は、その日、家に戻ってからも泣いた後、そう決意した。自分が惨めになっていくのは、まだ耐えられた。しかし、好きだった相手が惨めに見え出している、そして、そうなるように願い出している自分には耐えられなかった。

 白石は、今までいつだって尚子の憧れだったのだ。関係を続けていく内に、尚子は彼のろくでもなさを幾度も思い知った。けれど、それでも、尚子は白石のプレイが好きで、白石のいる『ajito』が好きだった。白石と初めて寝た時、ろくでもないな、やってしまったな、と思いながらも、やはり尚子は嬉しかったのだ。

 その気持ちが残っている内に、もう、これを、終わらせたかった。
 
 そう決めた尚子は、『ajito』関係の人々と連絡を取るのを止めた。元から、『ajito』でしか会わない連中だ。滅多に電話をする事もなかったので、それは簡単に済んだ。たまにある着信は全て無視した。どうせ、「今日行く?」とか「ご飯食べてから一緒に行かない?」とかいう誘いなのだ。軽い誘いには幾らでも候補がいる。電話をかけて来る誰かは、相手が出なければ、次の誰かにすぐさま電話をするのだ。尚子は、その電話を無視する事に、全く罪悪感を覚えなかった。

 しかし、美春から電話がかかってきた時、尚子は困惑した。気分としては、美春に会いたくなかった。言ってはいけない事を沢山抱えながらいつものように笑い合うのは辛いだろうと予想がついた。けれど、自分がこのまま連絡を絶てば、また、美春はいつものように心配するのだろう。しばし逡巡した末、尚子は、美春からの電話を取った。

 美春の用件は、案の定『ajito』への誘いだった。明日、恋人との待ち合わせの前に暇つぶしで『ajito』へ行くと言ってから、美春は続けた。

「一人で行くつもりだったんだけど、仕事終わってから、虹男も来るって言うからさ。尚子、虹男と会いたいって言ってたじゃん。会わせるよ」

 『ajito』にいる時、ナンパ目当ての男と軽く話したり、酒を奢ってもらったりはよく一緒にやっていたが、美春が男と付き合う事を尚子はどうにも想像出来ないでいた。それで、いつか、適当な世間話の中で、軽く言ったのだ。

「美春が好きになる奴ってどんなのか会ってみたいよ」

 それは、随分前の話だった。尚子自身もそう言った事など忘れていた。けれど、その言葉をきちんと覚えていて、それを果たそうとする美春を、尚子は眩しく、そして嬉しく感じた。

 明日、白石は、他の店のイベントに呼ばれていて『ajito』にはいない。しかも、美春は虹男が来たら帰ると言っている。早い時間だけ、少しならば。尚子は、承諾の返事をして電話を切った。
 
 「何だかぽわーんとした感じの子」。誰かからの風評どおり、美春の恋人はいかにも呑気そうな顔をしていた。居心地悪そうな様子で「こんばんは、俺、虹男です」とこの場所では少々間の抜けた感のある挨拶をしてくる彼のその感じは、いつもここにいる百戦錬磨風の男達とは、全く異質に見えた。意外なタイプだな。そう思いながら、尚子は、虹男に挨拶を返した。

「あ、この曲大好き!」

 二人の間で何やら気まずそうにしていた美春が、そう叫んでフロアへ走って行った。残された虹男が、美春の後ろ姿に苦笑しながら言った。

「あいつ、いつも元気だよな」
「そうだね。それだけじゃないだろうけど」

 何気なく言ったつもりの言葉だった。けれど、虹男が、その言葉に小さく驚いて問い返してきた。

「それってどういう意味?」

 虹男にそう聞かれ、自分の声音が刺々しいものになっていた事に尚子は気付いた。しまったと思いながら、口をつぐんだ。

 美春だって自分と同じように元気じゃない時がある筈なのだ。それをわからないような男なんて。自分の心の何処かにそういう気持ちがあった事を、尚子は自覚した。自分は、美春と自分を同化して、鈍感な白石への苛立ちを虹男にぶつけてしまったのだ。来るんじゃなかった。何してるんだろう、私。尚子は、自分を嫌悪しながら、虹男に謝った。

「ごめん、意味なんてないよ。八つ当たりしちゃった」
「何か、嫌な事、あった?」

 虹男がそう言ったその瞬間、尚子は酒にむせた。こちらをおずおずと覗き込むように言うその様子も、口調も、そして言葉の一字一句も、美春と全く同じだった。虹男が、咳き込む尚子の背中をあたふたとさすってくる。そして、また、こう言った。

「ごめん。俺、何か、悪い事、言った?」

 心配げにこちらを覗き込む、虹男の目を尚子は思わず直裁に見た。無心ないたわりの色が、その瞳には浮かんでいた。こういう素直な目に美春はやられてしまったのだ。そう思った。

 今まで、自分と美春は同類だと、尚子は思ってきていた。美春もまた、自分と同じように、何でも上手に受け流すやり方を身につけている筈だと。現に美春は、今まで、『ajito』にいる百戦練磨風の男を適当にあしらってきていたのだ。

 けれど、彼女は、こんな風に素直な言葉を言って、こんな風に初対面の相手すら労わる、この男にやられてしまった。

 虹男の手の平が、背中に熱かった。それを感じながら尚子はこんな風に虹男はいつも当たり前に美春の背中を撫でているのだろうと思った。そして、美春もそれを受け止めるのだろう。互いのやわな部分を躊躇いなく見せて、互いのやわな部分に躊躇いなく触れ、それでも、迷いなく互いを好きでいるのだろう。

 自分には、そんな事、とても出来ない。電話をするか、不在着信をかけ直すかどうかですら、損得勘定と猜疑心が渦巻く自分には、こんな事は絶対に無理だ。

 何だか、余りにも自分が滑稽に思えた。

 どうしようもなく笑い出した尚子に、虹男は眉をひそめ、むっとした様子を見せた。尚子は笑いながら、冗談めかした口調で言った。

「ごめん、笑ったりして。何か、他の人に聞いて欲しい事、どうして美春の彼氏が聞いてくるのよって思ったら、笑うしかなくて」

 こう言えば、『ajito』にいつもいる連中なら「何だよ、いい恋しろよ」なんて笑って返ってくる。そして、綺麗に場は収まるのだ。けれど、虹男は、その言葉を聞き、更に心配そうな表情を深めた。眉をひそめ、ひっそりとした調子で言った。

「聞いてもらうの待ってるんじゃなくて、自分で言えばいいのに」

 尚子はそれを聞き、一瞬呆けた。そうだよね。素直に、そう思った。けれど、それを口に出せず、尚子は小さく肩をすくめた。

「そういう訳にはいかないんだよね」

 軽く言ったその言葉に虹男は不服そうな顔をしたが、それでも何も言わないでいてくれた。そういう所も、美春と似ている。尚子は、そう思い少し笑った。

 その後、しばらくすると、美春と虹男は『ajito』を出て行った。並んで歩く二人の後ろ姿は何だかとても可愛らしく、尚子はそれを微笑ましい気持ちで見送った。けれど、見送り終わった後、尚子は、どうにも寂しい気持ちになった。毎週、馬鹿みたいに一緒に遊んでいたのに、美春は知らぬ間に遠くに行ってしまった。仕方ない事だとはわかってはいたが、やはり置いていかれたような気持ちは拭えなかった。

 また、思考がどんどん落ち込んでいきそうだった。もう一杯だけ飲んだら、帰ろう。そう思いながら、バーカウンターに並んだ。

 混み合うバーでは、狭いカウンターの中でスタッフが右往左往するばかりで、こちらになかなか気付いてくれなかった。業を煮やした尚子は、背伸びしてドリンクチケットを振り、スタッフの目を引こうとした。すると、後ろからひょいと骨ばった手がそれを奪った。

「おーい、彼女も頼みたいって」

 男は大声でそう叫ぶと、尚子の頭の上から、スタッフにドリンクチケットを渡した。

 尚子が礼を言うと、彼は、
「いや、別に奢ったわけじゃないし」
と言ってそっぽを向いた。

 冷たい態度だと思いながらも、そんなやり方がかえって、尚子の気を楽にさせた。

 ちょっとしたきっかけで女をリザーブしたも同然の扱いをする男には、もううんざりなのだ。彼の態度は、変に優しい男より、ずっと、尚子にとって心地良いものだった。

「でも、声かけてくれたし。お礼に一口あげるよ」

 出てきたグラスを、男に手渡した。男は、困ったように肩をすくめてグラスを受け取り、いかにも渋々という感じで、口をつけた。その態度にかちんと来て、尚子は彼からグラスを奪い返した。

「いらないなら別に飲まなくていいよ」

 そう言ってそっぽを向くと、男がこちらをまじまじと見てきた。何やら面白がっているような表情だ。先程までのぞんざいな素振りから一変し、いきなり親しげな口調で言ってきた。

「よく来るの?」

 何この豹変ぶり? 読めない男の態度に首を傾げつつ、尚子は短く答えた。

「うん、まぁまぁ」

 そこで、近くにいたスタッフが目を輝かせて話に入って来た。

「尚子さん。桜澤さん、来週うちでやるんですよ。絶対来るべきですよ」

 桜澤。彼の名前は聞き覚えがあった。確か、海外にもよく招聘され、先日、大規模なヨーロッパツアーを終えたばかりのDJだ。

 尚子は桜澤を見上げ、それからスタッフを見上げ、聞いた。

「え、この人が桜澤なの?」

 尚子の言葉にスタッフが目を丸くした。

「尚子さん、桜澤さんだって知らないで話してたんですか」
「うん、名前は知ってるけど顔は知らなかった」
「えー、雑誌とかに出てるじゃないですか」

 それまで二人の話に入らないでいた桜澤が、その言葉に嫌味に笑いながら答えた。

「大した顔してるわけでもないから知らなくていいよ」

 投げやりな口調だった。尚子はその冷たい言い方に、彼をちらりと見やった。桜澤は、続けて独り言のように呟いた。

「しかし、名前だけでも知られてるんだな。何か、びっくりだよ」

 スタッフがその言葉に、桜澤の肩を叩きながら言った。

「何言ってるんですか。ヨーロッパツアーしてきた人が」

 桜澤は、その言葉に疲れたようにため息をついた。しかし、その後すぐ、スタッフに笑顔を向けて言った。

「いやぁ、でも、ツアーったって回すだけだしさ。フランス行ったらスケジュールのミスがあったらしくてホテルが予約出来てなくて。俺、レコード抱いて野宿するのかと思ったよ」

 先程までの冷笑的な雰囲気を一掃した、胡散臭いくらいのおどけた口調だった。スタッフは、その言葉に明るく笑って去って行った。彼がこちらに背中を向けた瞬間、桜澤は再び疲れたようにため息をついた。

 尚子は、その桜澤の姿に、いよいよ腹立だしい気分になった。せっかく慕ってくれている若い人間にそんな馬鹿にしたようなやり方をするのはちょっと酷い。その気持ちそのままに尚子は言った。

「なんか、感じ悪いですね。せっかくなついてくれてるのに面倒臭そうな顔して」

 腕組みをしてそう呟いた尚子を、桜澤が驚いたように見下ろしてきた。尚子は、それを無視して言葉を続けた。

「そういうの面倒なら、遊びに来なけりゃいいじゃないですか。ちやほやされたいんだか、されたくないんだか、って感じ」

 また、これも、白石への苛立ちの八つ当たりだ。そう自覚しながらも、尚子は先程と違ってそれを後悔しなかった。自分も、いろいろとDJのおかげで痛い目を見てきているのだ。調子に乗っている他のDJの鼻っ柱を折るぐらいしてもいいと思った。

 意地悪な笑みを浮かべながら、桜澤を見上げた。どんな顔をしているか楽しみだった。

 しかし、桜澤は、尚子の予想を裏切り、顎に手を当てて苦笑していた。何だか随分楽しそうだ。尚子は、その表情に思わず声を上げた。

「何、笑ってんの」
「いや、面白くて」

そう言いながら、桜澤はひたすらに笑い続けていた。尚子は苛立ちながら、桜澤に問いを重ねる。自分の狙いが外れたのが悔しくてしょうがなかった。

「何で、面白いのよ。普通こう言われたらむかつくでしょ」

 桜澤が、それにへらへら笑いながら返してきた。

「うーん。俺、マゾなのかな。やばいな、新たな性癖教えられちゃった。責任、取ってよ」

 そう言って肩に手をかけてきた桜澤の手を尚子は振り払った。

「嫌よ。知らないよ、そんなの」
「えー、そんな心底、嫌って顔しないでよ。知ってよ、俺の事」
「知りたくもないよ、心から」

 その尚子の返答を聞き、桜澤はさらに笑いを大きくした。この人、本当に馬鹿なんじゃないだろうか。そう思いながら、尚子は憮然とした顔を作る。しかし、何だかどうにも嬉しかった。

 思った事を言ってみるものだ。今、尚子は素直にそう思った。この場にふさわしいやり方、スムーズな方法、相手が言って欲しいであろう事。いつの間にか、そんな事ばかりを考えていて、自分の本当の気持ちを忘れていたのかもしれない。馬鹿だな。自分にそう思った。

 そう、ここは、その為にある場所だった。昼の世界で被せられたいろんなものを脱ぎ捨て、ただ夜を楽しみに来る誰かと笑い合う為の場所だった。
 
 腕を組みつんとした顔を作っている尚子に桜澤が言った。

「ま、そんな感じだけどさ。来週よかったらおいでよ。ゲスト入れとくから」

 尚子は、それににやりと笑ってこう返した。

「うわ、出た、DJの常套手段。チャージぐらいで、私、落ちないですよ」

 桜澤はそれを聞き、またも嬉しそうに笑った。

「お前、言う事きついねー。大丈夫、俺、きつい女、嫌いだから」

 男はそれから「じゃあ来週ね」と尚子の名前だけ聞いて帰っていった。あいつ、どんなDJするのかな。聞いてみたいかも。そう思って尚子は少し笑う。そんな風に誰かの音楽を聴きたいと思った事は、とても久しぶりだった。そんな気持ちを取り戻させてくれた桜澤に、尚子は密かに感謝した。

 酒を飲む。無理にでも酔いたくて、流し込んでいた酒とは違う味が口の中に広がる。それはするりと喉に入り込み、少し胃の底を熱くさせた。それが脳裏に柔らかく広がった時、フロアから歓声が上がった。流れる軽快なリズムに、尚子は耳を澄ませた。

 動き出せば、一瞬にして、停滞していた日々は後ろへ過ぎ去る。聞こえて来るのはリズムだけ。それは心臓の鼓動のようにさりげなく、けれど、確かに、脈打っている。

 そのリズムと同調した足取りで、尚子は帰路についた。


 はい、今回の曲はこちら!

 UAさんの曲は二回目の登場です。ていうかわたしが初めて行ったライブはオンエアイーストのUAさんだった。そして、そのあともちろんクラブに行ったなあ。

 こちらの曲のプロデュースは第13回のタイトル曲のMondo Grosso大沢伸一さんですね。しかし、このPVも格好いい。

 沈み込んでた話がようやく明るくなってくる回なのですが、前も書いたように、こうして人がバトンタッチ方式で話していく構成だと、どうしても読み手としては全体のストーリーが追いにくいなあ、と思います。今ならもうちょいうまく構成できる気がする……。

 しかし、こうしてずいぶん前に書いたもののことをあれこれ考えられるのは楽しいことです。いやあ、本当、公開してよかった。

 全27回、引き続きご感想お待ちしています!

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。