【小説】ママとガール[2]「星の連なるネックレス」
2「星の連なるネックレス」
次の日。夢子は出社前に一度病院に行くと言って、いつもより早めに出て行った。きら子はいつものように山根と学校に行った。今日も、澤田は来なかった。下校時も澤田はおらず、きら子は山根と二人で誰もいない住宅街の細道を歩いていた。
その頃、きら子と山根は交換日記を始めていた。交換日記を始める際、ノートを渡しながら山根はこう言っていた。
「澤ちゃんには内緒ね」
そして、こう続けた。
「きらちゃんには、私の事、ちゃんと話せるような気がする」
きら子は山根の言葉に曖昧に頷いた。
交換日記を、山根はまめに書いてきた。山根の交換日記の内容は主に家と家族の事だった。
『うちで働いているのはお母さんだけだから、お金がない』、『お祖父ちゃんはボケていて寝たきりだ。食事を運ぶのは自分の役割だが、それが嫌で仕方がない』、『兄も姉もほとんど家を嫌っていて寄り付かない』、『奨学金を貰っていい大学に行くように母親からいつも言われている』。書き殴るように、山根は自分の心情を吐露してきた。
中でも頻出していたのは、母親が父親の悪口を言うという話だった。『あんな男と結婚したのは間違っていた』『あんな男と結婚さえしなければ』。山根の母親はいつもそう言っているそうだ。その度に、山根はこう書いていた。『でも、お父さんいなかったら私はいないのに』。
そして、ある日、日記にいつものように家の事を書いた後にこんな一言があった。
『ねぇ、私が死んだら悲しい?』
何でも、母に『塾に通いたい』と言ったら、『子供は金を食うばかりだ、三人も産むんじゃなかった』と言われたそうだ。『二人ならよかった、一人なら? どっちにしろ、私はいらないんだ』。山根の日記にはそう書いてあった。
きら子はその日記に何と返答すればいいのか、まるでわからなかった。帰宅した夢子に、きら子は聞いた。
「ねぇ、私を生まなきゃよかったって思った事、ある?」
部屋着に着替え、ビールを飲んでいた夢子は目を丸くして言った。
「え、ないわよ、一度も。考えた事もない。やだー、やめてよ、何かあった? あー、驚いた」
そのぎょっとした表情に、本当に発想した事すらなかったのがありありと感じられ、きら子は胸を撫で下ろした。そして、山根の日記での発言の事を話した。
「そっか……。辛いね、その子」
ビールの缶をテーブルに置き、夢子はじっときら子を見る。
「いい、きらちゃん。よく聞いて」
そう前置きしてから、夢子は話し出した。
「私も新しい生活に慣れなくて、疲れてる時もあると思うの。時には苛々もするし、あんまり家にいられなかったりもする」
夢子はそこで言葉を切り、顔を上げた。
「でも、私はきらちゃんを生まなきゃよかったなんて思わないわよ。絶対に、思わない」
真っ直ぐにきら子を見詰め、宣言するようにはっきりと夢子は言い切った。
「その子のお母さんもいっぱいいっぱいでつい心にもない事を口にしたのかもしれない。でも、その子は本当、傷付いたよね」
そう言って、夢子はしばし考え込んだ。そして、顔を上げ、言った。
「きらちゃん、ちゃんとその子に『あなたと会えてよかった』って伝えてあげてね」
きら子には、夢子の言葉の意味がよくわからなかった。けれど、きら子は、その言葉に曖昧に頷いた。
翌日。山根ときら子は一緒に帰宅していた。交換日記の返事はどのような文面にしたらいいのか悩み、まだ書いていなかった。山根は下校時、「昨日もたまには外食したい、って言ったら怒られた」という話をしていた。きら子はその言葉に、どう答えていいのかわからずに「そうなんだ」と言った。その時、道の向こうから手を振っている人影が見えた。夢子だ。
「きらちゃーん」
そう叫んで大きく笑い、駆け寄って来る。
「あ、お母さん。どうしたの、早いね」
「今日は仕事が早く終わって。せっかくだから、きらちゃんと何処か外食しようと思ってさ」
「本当?」
夢子がそう誘ってくれるのは嬉しい。だが、きら子は山根の心情が心配だった。しかし、夢子はそのまま話し続けた。
「駅の向こうのイタリアンにしようよ。この前のランチ美味しかったし」
それから、夢子は山根の方を見て言った。
「あ、ごめんね。挨拶が遅れて。きら子の母です。いつも仲良くしてくれてありがとう」
「山根です。初めまして」
山根が、ぎこちなく礼をして言った。
「あぁ、あなたが山根ちゃん。前にうちに来てくれたのよね。会えて嬉しい! よかったら、一緒にどう? 人数多い方が楽しいし」
山根は驚いたように目を丸くし、首をぶんぶんと横に振った。
「いえ、そんな申し訳ないので……。あの、大丈夫です」
「申し訳なくはないけど、そうね、突然だもんね。おうちでご飯も用意されてるだろうし」
「あ、いえ、はい」
交換日記には、『夕飯の支度はいつも家に帰ってから祖母と二人でしている』と書かれていた。だが、きら子は夢子に口を挟めなかった。口をつぐんでいる山根に、夢子が続けた。
「これからも、きら子をよろしくね。今度、また是非」
山根は曖昧に頷いた。
「じゃあ、行こうか。きらちゃん」
夢子が振り向いて笑顔で言った。
「うん。また明日。山根ちゃん」
そう言ってきら子は、山根に手を振った。
「うん、また明日」
山根がそう言って頭を下げ、帰路についた。
夢子と二人、並んで歩き出した。背中に視線を感じ、きら子は振り向いた。すると、振り返ってこちらを見ている山根が見えた。能面のように無表情に、山根はきら子と夢子を見ていた。何故か、胸騒ぎがした。不穏な感覚を胸の隅に感じながら、きら子は慌てて山根に気付かない振りをした。
翌日。いつものように、山根と待ち合わせて登校をしている途中、山根はこう言った。
「きらちゃんのお母さん、若くて綺麗だね。あのスーツ、似合ってた」
「本当? ありがとう」
「あれから、何処に行ったの?」
「駅の向こうにあるイタリアンレストラン」
「そっか」
山根はそれだけ言って、俯いた。
そして、帰り道。山根は別れ際、意を決したようにこう聞いた。
「ねぇ、お父さんと会う事はある?」
きら子は、山根が、何故いきなりそう聞くのかわからないまま、答えた。
「今は会えないけど、十八歳になったら会う約束はしてる」
その瞬間、山根の目が見開かれた。
「どうしたの?」
きら子がそう聞くと、山根がぽつりと呟いた。
「ずるいよ……」
「え?」
きら子がそう聞き返すと、山根は眉をひそめ、きら子を睨んだ。
「もういい。じゃあね」
そう言うと、山根は振り向きもせずに去っていった。
翌朝。いつも、八時にはきら子の家の前にあるはずの山根の姿は、予鈴の時刻が近付いても現れなかった。何かトラブルでもあったのだろうか。心配に思いながらも、きら子は、仕方なく一人で登校した。
一人きりでいつもの道を歩くのは心許なかった。登校路には、山根の姿は何処にも見当たらなかった。体調でも崩したのだろうか。それとも、何か他の理由があるのだろうか。既に、チャイムが鳴り始めていた。きら子は、息を切らせて教室のドアを開けた。
すると、きら子の後ろの席には山根がいた。汗一つかかず、涼しい顔で教科書を開いている。
きら子は、山根の様子をそっと窺った。山根は、そ知らぬ顔で筆記用具の整理をしていた。
「あ、ごめん。待ってた? 今日、一緒に行くの忘れてた」
山根が、教科書から目を離さぬまま、言った。
「え、あ、うん。ごめん」
当然のように言われ、きら子も思わず謝ってしまった。
その時、本鈴のチャイムが鳴った。釈然としないまま、きら子は席に着いた。先程まで視線を合わせようともしなかった山根が、自分の背中を見ているような気がした。
それから、山根のきら子への態度は冷淡さを増していった。無視はあからさまになり、きら子が話しかけても、山根はそっぽを向くばかりになった。そんな時、山根の視線の行く先には澤田がいた。澤田と山根は、いつの間にかまた仲良くなっていた。
私の思い込みだ。勘違いだ。きら子は、何度もそう自分に言い聞かせた。しかし、日々が過ぎる毎に山根の冷たさは増すばかりだった。
授業で教室を移動する時の事だった。今までなら、教室移動の際には、山根はすぐさまきら子の元に近寄り、一緒に廊下を歩いた。けれど、山根は澤田の所へ行った。きら子は教師が言った移動する教室の場所を聞き逃していた。他のクラスメイトは皆、誰かと連れ立っていて話しかけにくかった。きら子は、恐る恐る、山根に聞いた。
「あの、次の教室、何処にあるの?」
山根は、澤田との談笑を即座に止め、きら子を一瞥した。ねめつけるような冷淡な視線だった。
「え? さぁ」
そう言うと、澤田の方を向いてまた話の続きに戻ろうとする。
「何処だっけ?」
澤田も、肩をすくめてそう言った。
「聞いてない方が悪いでしょ」
「ねぇ、いつもぼうっとしてるしさ」
「何、考えてるのかわかんないよね」
「そういう所、ずっと気持ち悪かった」
続けざまに言われた言葉にきら子は胸を撃ち抜かれて固まった。何故、いきなりそんな風に言われなければならないのか、全く理解出来なかった。
山根が、ふっと唇に笑みを浮かべた。亀裂のような微笑だった。
「仕方ないなぁ。じゃあ、教えてあげる。三階の一番奥の教室だよ」
そう言って、山根は澤田を促し歩き出した。
「あ、ありがとう」
きら子がそう言うと、山根はくすりと笑い、言った。
「どういたしまして」
そして、足早に廊下を歩いていった。
それから、きら子は授業に必要なものを用意して三階に向かった。もう既に予鈴が鳴っていた。三階の廊下には人気がなかった。きら子は焦りながら、教室のドアを開けた。しかし、黒いカーテンで締め切られた暗い部屋には誰もいなかった。確か、三階の一番奥の教室だと言われた筈だ。自分が、聞き間違えたのだろうか。
その時、本鈴が鳴った。もう授業が始まってしまった。
結局、きら子は職員室に行き、そこにいた教師に聞いた。きら子のクラスが授業をしているのは別棟の教室だそうだ。
「先生の話を聞いてなかったの?」
職員室にいた教師が言った。
「聞き逃して……。すいません」
「なら、友達にちゃんと聞いて」
聞いたけれど。そう思ったが口には出せなかった。そういう所、ずっと気持ち悪かった。山根に言われた言葉が、頭の中をぐるぐると回っていた。
その晩、きら子は電話のプッシュボタンを押しては止め、押しては止めを何度も繰り返していた。山根に電話をするのは怖かった。だから、まずは事情を知っていそうな澤田に電話をしようと思った。自分から澤田の家に電話をするのは、これが初めてだった。
発信音が幾度か鳴り、電話に出たのは澤田本人だった。「はい、澤田です」。高いよそ行きの声は、きら子が名乗った瞬間に低くなった。
「あぁ。何?」
取り付くしまもないような調子だった。きら子は息を吸い、言った。
「山根ちゃんはどうしていきなり態度が変わったの?」
「さぁ」
澤田が、いかにも面倒臭そうに言った。きら子は澤田に食い下がった。
「どうして。教えて」
沈黙が流れた。はぁ、と澤田が迷惑気にため息を吐いた。その息の音で、今まで山根や澤田と過ごした学校生活が全て消えていくように思えた。きら子は唇の震えを噛み締めながら、澤田の返答を待った。
澤田が、ようやく口を開いた。
「この前さ、山根ちゃんが『お父さんと会う事、ある?』って聞いたでしょ」
「うん」
澤田が、また息を吐いた。呆れているような調子だった。澤田は、苛立った声で続けた。
「その前から、高い紅茶を出したり、お菓子出したり、お母さんと外食行ったり、仲良さそうにしてたでしょ」
「うん」
頷くとまた二人の間に沈黙が流れた。きら子の反応にしびれを切らしたように、澤田は言った。
「それだよ」
澤田が、短く言い切った。それでも、きら子にはその言葉の意味も、山根の態度の突然の変化の理由もまるでわからなかった。きら子は、再度おずおずと問いを重ねた。
「どうして?」
澤田は、またため息を吐き、答えた。
「山根ちゃんはあんたの事、あいつはずるいって言ってたよ」
澤田の背後から「早くしなさい」という声が聞こえた。澤田が「うん、もう終わり」とその声に答えた。
「裏切られたって思ってるんじゃない。でぶだけど仕方なく仲良くしてやったのに、調子に乗ってるって言ってたよ。あの人、本当に女王様だから、いつも誰かに何かしてないと気が済まないんだよ。これから大変だろうけど、頑張ってね。じゃ」
澤田は、早口に言って電話を切った。
きら子は、受話器を耳に当てたまま、呆然と床に座り込んだ。手から受話器が滑り落ち、床にごんと音を立てて転がった。
あいつはずるい。でぶだけど仕方なく仲良くしてやったのに、調子に乗ってる。
澤田の言った言葉が、脳裏に鐘のように鳴り響いていた。
澤田に電話をした事は、翌日には山根に伝わっていた。
「電話なんかしちゃって図々しい」
「わざわざ私に聞いてきてさ。本当、そういう所が鬱陶しかったんだよね」
唇を歪めながら、二人はそう話していた。
登校時に通学路でかち合うと、山根は後ろから追い越しながら、きら子にかばんをぶつけてくるようになった。いつしかそれは習慣になり、毎朝、きら子は山根のかばんの襲来を受けた。最初は背中を狙われていたが、だんだんと足や腕になり、続いて後頭部になった。かばんをぶつけられ、前へつんのめったきら子を、山根はいつもくすくすと笑いながら追い越していった。
それから一週間後、山根のかばんはきら子の顔にぶつけられた。驚きの余りに避ける事も出来ず、きら子はまともに顔の正面からかばんを受け止めた。かばんの底にある金具が目に当たり、きら子はその場にしゃがみこんだ。
「あっ、ごめーん。何かとろとろ歩いてるからさ。場所とって迷惑だから端を歩いてよね」
山根はきら子にそう言って、去った。
きら子はそれから登校する道筋を変えた。以前よりずっと遠回りになり、家を出るのを十分早めなければならなかった。だが、山根と会うよりはましだった。
下校時。山根と澤田を避けて、きら子はいつも素早く下校の準備をしていた。かばんに教科書を放り込み、床だけを見ながら席を立つ。振り向かずに、足早に教室を横切り、ドアを開けた。
その瞬間、山根が言った。
「そんなに急いで、お父さんと会うの?」
きら子は、ドアに手をかけたまま、息を呑んで立ちすくんだ。溶けた鉛を口いっぱいに流し込まれたような気持ちだった。
山根の態度が冷淡さを増すにつれ、他のクラスメイト達はきら子を避けるようになっていた。例えば、日直で重い教材を一人職員室から教室へ運ぶ時。以前なら、通りがかった誰かが助けてくれた。だが、今は誰もが遠巻きに見ているばかりだった。
廊下ですれ違いざま、山根と同じ小学校だった鳥山という女子が友達と話していた。
「また、山根女王様、ターゲット見つけたみたいだね」
「それにしてもなんで? 最初は、澤田を無視して、南の事を家来にしようとしてたじゃん」
「わかんないけど、家来にはふさわしくないって思ったんじゃない」
「ま、どっちもどっちっていうか。家、すごいぼろぼろの癖に女王様気取りも笑っちゃうけどね」
そう言って二人は顔を見合わせて笑った。その会話で、きら子は山根が小学生の頃から同じような事をしていたのを知った。
それから、二週間程経ったある日の事だった。体育の授業で、三人一組で創作ダンスをやらなければならなくなった。山根はすぐに澤田と組んだが、あと一人が見つからない様子だった。きら子は誰からも声をかけられず、ただその場に突っ立っていた。すると、教師が、「山根と南は出席番号が近いだろ」と言い、きら子を山根の所に組み入れた。
山根が小さく舌打ちをした。澤田が肩をすくめ、ため息を吐いた。それから、体育の度に「体育、本当に嫌だよね」、「あいつがいるなんてさ」と山根と澤田が聞こえよがしに囁くようになった。
「じゃあ、今日も三人一組で」
体育の教師がそう言ったある日。山根は大きな声で言った。
「えー、私達、二人しかいませーん」
「何だ、誰か休んでいるのか」
「えー、わかんないけど二人だけだよね」
山根が澤田に同意を求める。澤田が冷笑を浮かべて首を傾げる。
「山根の組は、なんだ、南がいるじゃないか。南は何処だ?」
目立たぬよう後ろの方にいたきら子は小さく手をあげた。
「なんだ、いるじゃないか。早く組に入れ」
「あー、いたんだぁ」
山根がわざとらしく驚いたような表情を作り、言った。そして、きら子の近くでぼそりと呟いた。
「本当、目障り。あんたなんか数に入れないから」
どうして、こんな事になったのか教えて欲しい。そう思いながらきら子は、あたりを見回した。近くにいた誰もが、きら子から一斉に目をそらした。中には、俯きながらも小さく笑っている者もいた。
山根が、もう一度、きら子の耳に顔を寄せた。
「いないよ。味方なんて」
小さく囁いて、山根は澤田の元へ走って行った。
「あー、今日は疲れた。何かとろとろした奴がいたからさ
」
体育が終わり、着替えの時間になった。山根は伸びをしながら澤田に言った。
「あんなもっさりした奴がいたら絶対いい点数取れないよ。本当迷惑。邪魔だし、気持ち悪いし。体育、本当嫌いになってきた」
そう言いながら、着替えをしているきら子をちらちらと見る。脱ぎ掛けの体操服から見えている肌に、突き刺すような視線を感じた。きら子は一瞬でも早く着替えようと慌てたが、焦りのせいかなかなか制服のブラウスのボタンが止められなかった。
「あいつ、また太ってボタンが止められないんじゃないの?」
山根がきら子を見ながら、そう続けた。そして、楽しげに言った。
「あ、そうだ。あいつさ、きら子じゃなくて、キモ子の方がぴったりじゃない?」
ボタンを嵌める手が凍り付いた。動けないまま、きら子はその言葉を聞いていた。
「あはは、山根ちゃん、上手いね」
澤田が笑いながら、言った。
「じゃあ、キモ子決定ね」
山根が、宣言をするように、言った。
幼稚園生だった頃、きら子は、夢子に聞いた事がある。
「どうして私の名前はきら子なの?」
幼稚園では、自分の名前の由来を書くという宿題が出されていた。幼いきら子は歌の『キラキラ星』のお遊戯の時にいつもからかわれる自分の名前が嫌いだった。不満に唇を尖らせながら問うきら子に、夢子は晴れやかに笑いながらこう答えた。
「きらきらと星のように輝くように。薄闇に染まる東の空にいつも上るように。曇りでも雨でもそこにあるように。いつも誰かがそれを見上げているように。何万年も前からこの場所に光が届く事が決まっているように。きらちゃんがそんな風な子になれるって信じているからよ」
当時のきら子には、その長い言葉の意味はまるでわからなかった。ただ、夢子が万感の思いを込めた名前を付けようとした事はわかった。それから、きら子は自分の名前を嫌うのを止めた。
山根は、キモ子と言う呼び名が気に入ったようで、それからも澤田らと話す度にキモ子と口に出していた。その言葉を聞く度にきら子は、自分の本当の名前が黒く塗り潰されていくように感じていた。
そんな時に、家に届け物があった。
父と別れ、引っ越す時、荷造りを間違えてきら子の本や私物がいくつか父の所に行っていた。届いた荷物には、それらと一緒に小さな箱が入っていた。深い青のベルベッドで出来た箱には、小さなカードが添えられていた。カードの表には父の筆跡で『きら子へ』と書かれていた。
ついこの前まで見慣れていた、けれど、今ではもう見る事もない父の文字をきら子は指でそっと撫でた。きら子は、まずベルベッドの箱を開けた。中には、小さな星が連なったネックレスがあった。華奢なゴールドチェーンがきらきらと輝き、連なった星には小さな宝石が埋め込まれていた。そして、きら子はカードを見た。
『十八歳になったら、これを着けて、また会おう』
十八歳になったら、会おう。きら子は、父の言葉を胸の中でもう一度繰り返した。そして、ネックレスを手に取った。
今まで身に着けた事などないような高価なものだとは一目見てわかった。子どもの自分が着けていいのだろうか。そう思いながら留め金を外し、首にかけた。どきどきしながら、鏡を覗き込んだ。まだ幼い自分には似合っているとは到底思えなかったが、ネックレスは動く度にきらきらと輝いた。きら子の胸の内の大切なものと呼応するかのようだった。
その日、きら子はネックレスをしたまま、眠りに着いた。これさえあれば、どんな事があっても大丈夫な気がした。
翌朝。山根との事があってから、きら子はよく眠れなくなっていた。だが、昨夜は驚く程にぐっすり眠れた。そのおかげで、寝坊をし、きら子は急いで身支度を整え、学校に向かった。
予鈴が鳴る直前に教室に滑り込んだ。息を切らし、汗をかいたきら子を見て、山根が小さく「キモ子、今日も気持ち悪いね」と呟いた。周囲にいた誰もが忍び笑いを漏らした。
きら子は汗ばんだ額を拭おうと机の横にかけた鞄からハンカチを取り出そうとする。すると、首にぐい、と何かが食い込む感触がした。
「遅刻寸前に来ておいて、何これ」
山根が、静かにそう言った。外すのを忘れてそのまま着けてきていたネックレスのチェーンを引っ張られていた。
「お洒落のつもり? あんたなんかに似合わないんだけど」
首に、細いチェーンが食い込んだ。皮膚に引き攣れるような痛みが走った。ぐいぐいとチェーンが首を絞めつけてくる。
「うわ、山根、今回は激しいな」
「よっぽどなんでしょ」
誰かがそう囁いているのが聞こえた。けれど、誰もきら子を助けてくれようとはしなかった。
きら子はチェーンの隙間に手を入れようとした。しかし、その手は山根によって振り払われた。
「何、これ。どうしたの」
山根が、淡々と続けた。
「自分で買ったんじゃないよね? 誰から貰ったの?」
チェーンの食い込みが、より一層強くなった。皮膚が捻じ切れそうに痛い。喉仏に食い込むチャームが、器官を圧迫して苦しい。息をあえがせるきら子に、山根は声を荒げて続けた。
「誰から貰ったか言いなさいよ!」
「お父さん……」
息の間から、途切れ途切れにきら子は言った。その瞬間、チェーンが更に首に食い込んだ。喉の奥から、嗚咽が漏れた。目の端から涙が落ちる。頭の奥がじんじんと熱い。犬のように息をあえがえても酸素が入ってこない。目の前が段々と暗くなっていく。
その時、ぶつっ、という音がして、きら子の首からチェーンの感触が消えた。
勢い余って前につんのめったきら子は、そのまま、机に突っ伏して喉を押さえ、息をした。いくら息を吸っても心臓の鼓動は打ち鳴らされる鐘のように鳴り止まず、喉の奥から吐くように何度も咳き込んだ。その時、教室の扉が開いて、教師が入ってきた。教師は、きら子と山根を交互に見て訝しげに首を傾げた。
「どうした? もう授業だぞ」
「すいません。南さんが校則違反しているから、学校では取った方がいいよって言ったんですけど」
そう言って、山根は教師にネックレスを掲げて見せた。
「留め金を外してあげようとしたら南さんが暴れて。それで、チェーンが千切れちゃったんです」
山根が、きら子の背後から目の前にネックレスを投げた。まだ涙が残る視界で、きら子はネックレスを見た。留め金の近くでチェーンが弾けていた。きら子は、震える手を伸ばし、ネックレスを握り締めた。もう、誰にもこのネックレスに触れられたくなかった。
教師が、きら子の机に近付いてきた。
「南、どうした」
きら子は、何も答えられずに首を横に振った。気を抜くと、涙が溢れてしまいそうだった。
「南、それ、見せてみろ」
教師が、きら子の拳を指して言った。きら子は、拳を更に強く握り締めた。
「なんだ、それ。ネックレスか? 宝飾品は登校時、着けてきてはいけないと校則にあるのは知っているだろ」
教師の声が頭上から降ってくる。その時、山根がかん高い声で言った。
「外してあげるって言ったのに、そんな風に強情に暴れるから……。あ、痛っ」
山根がそう言って手を押さえた。山根の手の人差し指の付け根が小さく切れ、出血していた。教師が、心配そうに山根の手を見た。
「山根、大丈夫か? 保健室行くか?」
「あ、いえ、大丈夫です。ちょっと切っただけだから」
「ほら、親切に注意してくれた友達に怪我までさせて。南、これからは注意しなきゃ駄目だぞ」
「いいんです。私も少し強引だったから。こちらこそ、ごめんね」
「ほら、山根は自分は悪くないのに謝ってるぞ。南も、謝れ」
自分を抜きにして滞りなく進んでいく会話に、きら子は呆然としていた。拳が、震えた。もう首は絞めつけられてはいないのに息が出来なかった。きら子はゆっくり顔を上げ、山根の方を振り向いた。
山根は、静かに微笑んでいた。勝ち誇ったような笑みだった。そして、山根が口の動きだけでこう言った。
「早く謝れよ」
嫌だ。嘘だ。こんな事は間違っている。頭の中でそんな言葉がぐるぐる回った。周囲の視線がちくちくと痛い。
「謝れば済むのに」
「早く授業初めて欲しいんだけど」
誰かが、そう囁いているのが聞こえた。静まり返った教室に時計の秒針の音だけが響く。早く。謝れ。謝れば済む。そんな言葉だけが打ち寄せるようにきら子の頭に巡った。
きら子は、重い口を開いた。
「ごめんなさい」
その言葉を口にした瞬間、口の中に泥をいっぱい詰め込まれたような気がした。泥が内臓まで埋め尽くしていくように思えた。
きら子の謝罪で場は収束していった。
「これでようやく授業が出来るよ」
誰かがそう言っていた。教師が教壇に戻り、山根が席に戻った。その時、山根はきら子の耳元でそっと言った。
「言ったじゃん。味方なんていないってさ」
真っ暗な視界の中、山根の勝ち誇った笑顔だけが眼前にあった。
その日、それからどうやって授業を終えたのか、家に帰宅したのかをきら子は覚えていない。家に帰るなり、鍵を慌てて閉めた。急ぐ余りに手元が狂い、ノブを持つ手が何度も滑った。普段はかける事のないチェーンもかけた。何度もチェーンをかける事に失敗して、爪が折れた。その痛みにも気付かず、きら子は何度も鍵が閉まっているか、チェーンがしっかりかかっているか確認をした。
それから、部屋に行き、制服を脱いだ。いつもならハンガーにきちんとかける上着も床に脱ぎ散らかした。風呂に入り、シャワーを浴びた。山根の手が触れた首筋を、何度も洗った。強く洗い過ぎて首がひりひりした。それでも、きら子は石鹸を擦り付け、首筋を洗い続けた。
すると、ドアからがちゃがちゃという音が聞こえた。きら子は風呂場で凍り付いた。手にしていたスポンジが足元に滑り落ちた。きら子は、とっさにまだ湯を貯めていないバスタブの蓋を開け、その中に潜り込んだ。
「あれ、いないのー。きらちゃーん」
玄関から、夢子の声が聞こえた。
「きらちゃーん。何かチェーンがかかっていて入れないのよ。開けてー!」
夢子が大きな声で叫んでいた。そこで、きら子は我に返った。
そうだ、そろそろ夢子の帰宅時間だ。この家の鍵は自分と夢子しか持っていない。なのに、どうして自分はバスタブの中に隠れようとする程、怯えているのだろう。
きら子は、バスタオルを巻いて玄関に行き、チェーンを開けた。
「どうしたの、チェーンなんてかけて。それにお風呂入るのが随分早いんじゃない?」
夢子が、靴を脱ぎながら笑顔で聞いてくる。きら子は夢子の顔を見詰めた。夢子がここにいる事に違和感を覚えた。夢子の笑顔に現実感が感じられなかった。瞬間、夢子の顔に、山根のあの勝ち誇った笑顔が重なった。
息を呑んだ。鼓動がどくんと跳ねた。爪先が、唇が震え出した。喉の奥が引き攣れるように蠢いた。このままじゃ、叫び出してしまう。きら子は、口元を手で押さえ、踵を返した。
「何でもない。私、寝るね」
「え? あれ、ご飯は?」
「いらない」
そう言って、きら子は自室のドアを閉めた。ドアにもたれ、ずるずると床に座り込んだ。そんな自分を、山根が高笑いして何処かで見ているように思えた。家の中まで、山根の気配が充満しているような気がした。
「昨日はご飯も食べずに寝ちゃったからお腹減ったでしょ」
翌朝。起きると、エプロン姿の夢子が台所からリビングに料理を運び込んでいた。きら子の好きなフレンチトースト。ほうれん草とチーズのオムレツ。グリーンサラダ。フルーツとヨーグルト。作り立てのスムージー。色鮮やかに並ぶ食事は、窓から差し込む朝の光に照らされて、食欲をそそる匂いをさせていた。けれど、きら子は食卓から顔を背けた。食べ物の匂いを嗅いだだけで、吐き気がこみ上げてきた。
「ごめん。お母さん、今日、私、当番で早く行かなきゃいけないのを忘れてた」
そう言うと、きら子は何かを言いかけた夢子を無視して、鞄を掴み、家から出た。
登校路には、まだ制服を着た人影はなかった。このまま、学校に着いても授業まで随分時間がある。きら子は、人目につかない小さな路地に入った。路地の先には小さな駐車場があった。車止めに腰を下ろして、きら子は空を見上げた。
これから、学校だ。きら子は、ふとそう思う。今日の授業は理科と音楽と体育だ。教室移動や着替えが多いから一週間の中で一番面倒臭いと誰かが言っていた。そうだ、後、こうも言っていた。体育、本当に嫌いになった、あいつがいるから嫌いになった、と。
そう思った瞬間、きら子の眼前に山根の顔が浮かんだ。きら子は思わず、首筋に手をやった。震える体を抑えようと強く首筋を掴んだ。すると爪にがりっと嫌な感触がした。驚いて爪を見ると、皮膚の欠けらが小さくこびり付いていた。かすかに、血も、ついていた。
きら子は慌てて、鞄の中から鏡を取り出した。掴んでいた首筋が赤く染まり、小さな傷が出来ていた。ちょうど、昨日の山根の手の傷と同じくらいの大きさだった。
これで、お互い様のような気がした。これで、許してくれるような気がした。これで、前のような関係に戻れるような気がした。自分をもっと傷付ければ、もう山根から傷付けられる事はないような気がした。
もっと、と思った。きら子は、今度は腕に爪を立てた。
しかし、その瞬間、吐き気がこみ上げた。きら子は座り込んだまま体を折り、大きくえづいた。
昨夜から食べ物を口にしていなかったせいか、胃液と唾液が口から糸を引いて垂れるばかりだった。それでも、まだ吐き出したいものがあるような気がして、きら子はぜん動する胃を抑えながら、胃液とよだれを吐いた。
ひとしきり吐いてから、唇を手で拭った。嫌な臭いのする液体がべたりと手に張り付いた。きら子は乱暴に手を地面に擦り付けた。手の甲が、じゃりっと音を立てた。
その瞬間、きら子の唇から嗚咽が漏れ出た。
空を仰ぎ、目を見開いたまま、きら子は手放しで泣いた。涙は尽きる事なく頬を熱砂のように焼いた。歯を食いしばって堪えていた泣き声もいつしか漏れ出ていた。きら子は、わぁわぁと声を上げ、赤子のように泣いた。
泣いて、泣いて、疲れ果てた頃、遠くからチャイムの音が聞こえた。この音は、予鈴だ。
急がなければならないのはわかっていた。けれど、きら子はその場所から立ち上がる事が出来なかった。涙で曇る視界に、空が見えた。薄青い五月の空に雲がひと刷毛、流れていた。
何も知らずにきら子を送り出した夢子の顔を思い出した。今から引き返して、もう一度、夢子の顔を見たらどんな顔をするだろう。そう思った。けれど、せり上がるようにこの気持ちが湧き上がってきて堪らなくなった。
なんで、こんな風になってまで、学校に行かなきゃいけないの。
きら子は立ち上がり、学校に背を向けて歩き出した。
時刻は午前九時。まだ、夢子が家にいる時間帯だった。きら子はドアの前で幾度か深呼吸した。胸に手を当て、唾を呑み込み、ドアノブに手をかけた。
「え、あれ、きらちゃん? どうしたの?」
用意をしていた夢子がきら子に驚きながらそう問う。
「お母さん、お腹痛い」
学校に行かない、行きたくない。本当はそう言いたかった。けれど、何故か言えなかった。夢子を心配させるような事をしたくなかった。
「え、そうなの。具合悪くなって引き返したの?」
「うん、ごめん。ちょっと寝る」
「わかった。じゃあ、学校に連絡を入れておくから」
そう言う夢子に振り向かず、きら子は自室に入った。夢子に嘘を吐くのはこれが初めての事だった。
翌朝。きら子の部屋のドアが躊躇いがちにノックされた。返事をすると夢子がベッドサイドまで近寄って来て言った。
「きらちゃん。具合どう?」
「まだ駄目」
嘘を吐いている事が後ろめたくて、きら子は毛布を顔まで引き上げた。
「わかった。ご飯、置いておくから。あと保険証。歩けるようなら病院行ってね」
そう言うと、夢子が心配気にきら子の顔を覗き込んだ。きら子は更に毛布で顔を隠した。
「ねぇ、もしかして、何かあった?」
「何でもないよ、何でもない」
きら子は、すぐさまそう言い、続いて「眠い」と言った。
「そう……。ゆっくり休んで」
そう言い残して、夢子は会社に行った。
それから一週間、きら子は部屋にこもり続けた。食欲はまるで湧かなかった。夢子がノックをしても、部屋のドアの前に食事を置いてくれても、答える事が出来なかった。トイレやたまの入浴で夢子と顔を合わせる度にきら子は自室に逃げ帰った。夢子の顔にまた山根を重ねてしまいそうで怖かった。
頭の中では、山根の顔がずっと回っていた。山根を思い出す度に吐き気がして、胃液と唾液だけをごみ箱に吐いた。山根の顔の映像を振り払いたくて、きら子は頭をかきむしった。時に制御しきれない感情が湧いて出て、奇声をあげそうになるのを必死で抑えた。
ある日、帰宅した夢子が郵便物をテーブルに置いて仕分けをしていると「何これ」と封筒をつまみ上げた。何の変哲もない茶封筒に大きく『キモ子へ』と書かれていた。きら子は、その封筒を夢子からひったくった。
「え、どうしたの、きらちゃん」
夢子が驚いて問う。きら子はその質問に答えず、自室に走りこんだ。
中身は学校で配られるプリントだった。出席番号が近く家も近い山根は、教師にプリントを届けろと言われたようだ。学校のプリント以外には何も入っていなかった。その事が余計に怖かった。
もう行かない。二度と行けない。震える手で封筒をごみ箱に捨てながら、きら子は心の中で何度もそう繰り返した。
その翌日、夢子がきら子にこう告げた。
「昨日、きらちゃんが寝ている間に連絡が来たの。山根さんって子」
山根の名前を聞いた瞬間、息が止まったような気がした。
「昨日、プリントを渡しに来たんだけどいなかったみたいだからポストに入れました。届いてますか、って」
きら子は何も言えないまま、かろうじて頷いた。
「山根さんってあの子よね? 前に家の前で会った子」
もう一度、首を縦に振った。
「プリント届けてくれるなんてありがたいね。お礼を言わなきゃね」
そう続ける夢子を、きら子は胸に空いた穴から何もかもが抜け出ていくような気持ちで見ていた。
いないよ、味方なんて。
山根の言葉が、脳裏に繰り返し、よぎった。
それから数週間、きら子は部屋にこもり続けた。
夢子がドアの前に食事を置いてくれても、少し食べただけで戻してしまった。夢子が出勤して一人で家にいる間、ヨーグルトなどの軽いものならば何とか食べられた。夢子は毎日、帰ってくるなりきら子の部屋をノックし、「調子はどう?」と聞いた。「まだ、具合が悪い」とだけ言って、いつもきら子は布団をかぶり、眠ったふりをした。
ある日、真夜中に目が覚め、トイレに行く途中の事だった。リビングから物音がして、きら子はそっとリビングを覗いた。夢子はうなだれたように頬杖をつきながら、電話をしていた。
「うん、そう。ずっと部屋にこもったままなの。何かあったのか聞いても答えてくれなくて」
夢子は、電話の相手に向かって、そう話していた。
「引っ越してから気丈に振る舞ってたけど、やっぱり離婚がショックだったと思うの。それが今になって出ているのかもしれない。だから、何も言わないでいるんだけど」
夢子の声が次第に鼻声になっていった。夢子の持つグラスの氷がからんと音を立てた。
「でも、どうしよう。このまま、ずっと部屋にいたら。私、あの子の人生を壊しちゃったのかもしれない」
そう言って、夢子はテーブルに突っ伏し、泣いた。
違う、そうじゃない。きら子は夢子に駆け寄ってそう言いたかった。けれど、じゃあ理由は、と聞かれた時にきら子は山根との事を話したくはなかった。山根との事を思い出すだけで内臓が引き攣れるような感覚がした。そして、きら子はこうも思っていた。山根にとっては、うちの事や夢子の事も原因なのだ、と。
薄明りに照らされて震えている夢子の背中はいつもよりずっと小さく見えた。何事もなかったかのように振る舞っている夢子の本音が、胸に堪えた。きら子はそっと足音を忍ばせて、部屋に戻った。
それから、一ヵ月が過ぎた。食欲不振が続き、食べても吐いてしまう事が増えていたきら子の体重はがくんと落ちていた。それまできら子は標準よりもややぽっちゃりしていたが、あっという間に肉はのきなみこそげ落ちた。洗面所の体重計に乗ると、五キロ減っていた。
洗面所の鏡に映る自分は、顔色も悪く肌もかさつき、やつれきっていた。我ながら、とても中学生とは思えない生気のない顔つきだった。夢子が心配するのも無理はない、と思った。あの日、一人で電話を片手にテーブルに突っ伏し泣いていた夢子の姿を思い出した。このままではいけない、と思った。
とりあえず、何か食べよう。きら子は冷蔵庫を漁り、見よう見まねで料理を作った。料理を作っている間は無心になれた。今日は、夕食も自分で作ろう、と思いつく。何かをしたいと思う事自体が久しぶりのような気がした。
夢子の持っていた料理本を見て、その日、きら子は夕食を作った。帰ってきた夢子は夕食がある事に驚き、喜んだ。夢子の笑顔も久しぶりに見た気がした。それから、きら子は毎日、夕食を作るようになった。学校にはもう行きたくはない。けれど、夢子にもうあの夜のように泣いて欲しくはなかった。
五キロ体重が落ちると、随分と見た目も変わる。今まで着ていた服は、のきなみ大き過ぎて着られなくなった。きら子は衣装持ちの夢子のクローゼットを漁り、自分に似合いそうな服を探して着るようになった。図書館にはファッション誌も置いてある。それを借りてきて、きら子は服の着こなし方を学んだ。
ある日、夕食の買い物に出かけると、若い男に声をかけられた。彼は駆け出しの美容師で、髪を切らせてくれるモデルを探していた。今まできら子は、ただ真っ直ぐに切っただけのロングヘアだった。せっかくだから、髪も切ってみよう。きら子は美容師の申し出を受け入れた。
美容師は、きら子の髪を軽く染め量を減らしてサイドを無造作に切った。今までまとまりにくく重い印象だった髪が、別人のように垢抜けた。切った髪の重さの分だけ、自分も軽くなったような気がした。
そして、学校に行かなくなってから一ヵ月半が過ぎた。料理を作り、家事をし、いろんな服を着るだけで日々は安定していた。新しい服を着てみるのも、作った事のない料理を作るのも、それを食べた夢子が喜んでくれるのも楽しかった。
そんな日々を過ごしていたある日、電話がやってきた。きら子は朝食の準備をし、夢子は朝の身支度をしていた。響く電話の音に夢子が受話器を取った。
「あっ、どうも。おはようございます」
急にかしこまった口調になった夢子に驚いて、きら子は顔を上げた。化粧の途中だった夢子は、アイライナーを片手に持ちながら、ぺこぺこお辞儀をしている。
「きらちゃん」
五分程すると、夢子が電話の送話口を抑えながら、きら子を呼んだ。きら子は、首を傾げながら夢子の元へ行った。
「誰?」
「学校よ。担任の先生」
そう言うと夢子は受話器をきら子に渡した。きら子は、仕方なく受話器を耳に当てた。
「久しぶりだな。元気にしてるか」
その声を聞いた瞬間、嫌悪感がこみ上げた。「南も、謝れ」。あの時の教師の声を思い出した。きら子は、かろうじて声を出した。
「はい、元気です」
この一ヶ月の間、担任の教師は、何度もきら子に電話をかけてきた。「何が理由なんだ」「いじめがあったのか」。きら子は何も答えなかった。答える気も、なかった。
それでも、その日、教師は執拗に学校に来るように言った。最初は登校するようにと話していたが、きら子が強硬に断ると、教室には来なくていいから、一度、会って話をしないかと譲歩した。押し問答に疲れたきら子は、仕方なくこう答えた。
「わかりました。じゃあ、話すだけなら」
三日後に約束をし、きら子は電話を切った。
学校に行く日の前日になり、ふと気付いた。明日、何を着ていくべきだろうか。元々サイズが大きかった制服は、今や小さな子どもが借り物の服を着ているようだった。向こうが来いと言っているのだ。好きな格好ぐらいしていってもいいじゃないか。開き直って、きら子は夢子のクローゼットをかき回し始めた。
「何、私の服をチェックするなんて。きらちゃんも色気づいちゃってー」
酒を飲んで帰ってきた夢子は、きら子の様子を見て言った。きら子はその言葉に答えず、黒のシャツと白と黒のブロックチェックのミニスカートを取り出した。
「お母さん、このスカート大分短くない? いつまでこれを穿くつもり?」
「えー? 私が美脚である限りよー」
風呂に向かいながら、夢子はそう言った。きら子は呆れながら、次にバッグを選び出した。エナメルの横長のバッグに決めた。靴は、夢子とサイズが合わないので、仕方なく前に履いていた黒のローファーにし、ニーソックスを履く事にした。風呂から上がった夢子にからまれる前に、きら子は全てを用意して眠りについた。
翌朝。夢子は、昨夜の深酒にも関わらず、いつもより一時間も早く起きて朝食を作っていた。「私が作るのに」ときら子が言っても、「いいの、きらちゃんは今日学校に行くんでしょ」と言って台所から動かなかった。
「きらちゃん、服は?」
パジャマから着替えようとしていたら夢子が聞いてきた。
「制服、もう大き過ぎるから。これで行くよ」
きら子は、昨日選んだ服を見せた。
「昨日、用意してたの、その為だったの。でも、それは……」
言葉を切った夢子を、きら子はじっと見詰めた。
「ま、そんなに派手じゃないし、いっか」
夢子は肩をすくめてそう言うと、きら子の好きなほうれん草とチーズのオムレツを出して言った。
「久々の学校、頑張ってね」
何を、頑張ればいいのだろう。夢子の笑顔を横目で見ながら、きら子はオムレツを二口だけ食べて家を出た。
教師からは教室ではなく職員室に来い、と言われていた。だから、きら子は職員が出入りする昇降口の方へ向かった。だが、きら子は上履きを生徒用の昇降口に置いたままだった。戻って上履きを取りに行くのが面倒だったので、きら子は来客用のスリッパを履いた。
きら子の担任の教師の机は、職員室の真ん中にあった。きら子は、すたすたと担任教師の所へ歩いていった。周囲にいた教師がちらりときら子を見たが、授業の準備で忙しいのか何も声をかけてはこなかった。担任の教師が、目を丸くして言った。
「お前、その格好」
きら子はその言葉を無視して、教師の座る席の隣にあった椅子に腰を下ろした。
「はい。何でしょう」
きら子は、教師をちらりと見て言った。それから、窓の外に視線をそらした。
「なんで私服なんだ、その髪型はどうした」
「カットモデルを探していた美容師さんに声をかけられてやってもらいました」
教師が、呆れたようにため息をついた。きら子は、うんざりした気分でスリッパの足先をぱたぱたとさせた。その時、チャイムが鳴った。
きら子は、時計を示しながら言った。
「先生、予鈴が鳴りましたよ」
すると、教師が心底困り果てたようにこう呟いた。
「その格好じゃあ、お前を教室には連れて行けないよ」
きら子は、首を傾げて教師に聞いた。
「え、先生、私を教室に連れて行く為にここで待ってたんですか」
「そうだよ。久しぶりに来るんだから、俺と一緒に行った方がいいだろ」
腕を組み、自分の言葉に頷きながら、教師はそう言った。きら子は聞き返した。
「前みたいな事って?」
「山根との事だよ。皆に聞いたぞ。アンケートを取って調査もした。俺に相談してくれたらよかったのに、と思ったよ。もっと素直になってくれたら、力になれたのに」
きら子は無言で教師を見据えた。
「でも、大丈夫だ。アンケートではいじめはいけない、と言っているんだから」
教師が、いかにも満足げにそう言った。きら子は、この場に突っ伏して頭を抱えてしまいたくなった。
「ちょっと待て、体操着を持ってくるからそれに着替えろ」
きら子が呆然としている内に、教師は職員室から出て行った。本鈴がしんと静まりかえった職員室に響いた。
アンケートでは、いじめはいけないと言っているんだから。
教師の言った言葉が、頭の中をぐるぐると回っていた。
アンケートなんかでわかる訳がない。文字だけならいくらでも嘘を吐ける。胸の中でそう何度も繰り返した。そして、ふと、疑問に思った。
どうして、私にあんな事をしたのか、誰か山根に面と向かって聞いたのだろうか。
澤田は、こう言っていた。
「あの人は本当、女王様だから」
山根と同じ小学校の鳥山達の話も思い出した。
「また、山根女王様、ターゲット見つけたみたいだね」
他のクラスメイトもこう言っていた。
「うわ、山根、今回は激しいな」
「よっぽどなんでしょ」
澤田も、澤田だけではなく鳥山らの他のクラスメイトも、山根が女王様でターゲットを見つけてはきら子にしたように誰かにしてきた事は知っていた。
けれど、きっと、山根に「どうして」とは聞いてはいないだろう。
きら子は、そう思い至り、呆然とした。
怖い、巻き込まれたくない、関わりたくない。だから、山根にあの仕打ちをされた時も、きら子を庇うクラスメイトはいなかったのだときら子は思う。
けれど、同じ理由で、山根も、ある意味で無視をされているのではないだろうか。
怖いから、巻き込まれたくないから、関わりたくないから、誰も気持ちを聞いてくれないのではないだろうか。
そう思うと、頬杖をついた手が自分の頭の重さでずんと沈むような気がした。自分と同じように山根も誰からも省みられてはいない。その事が、胸に堪えた。
教師の机の上に、「今日は帰る」と書置きを残し、きら子は学校から出た。
2022年のかつて不登校の中学生だったわたしのつぶやき
第二回でいきなりこれかよ……といういじめ炸裂回です。
(注:読んでで辛い子はもちろん読まなくていいからね! そして、先にネタバレするけどハッピーエンドだからね!)
あれ……わたし最近、『君に届け』を読み返していて、この『ママとガール』も爽やかな青春小説だよね、ぐらいに思って公開してるんだけど、
いや、読み返してみたらもう……こりゃあ、もう……ですよ。(いや、回が進むにつれて爽やか要素あるから! そこは先に言っとく!)
ちなみに『君に届け』も名作よね……。なんていうか、登場人物が性善説でできているから安らぐわ(実はめちゃくちゃ少女漫画好き)。
ちなみにもう30年近く前だから言えるけど、このいじめ回、ほぼ実話。
ネックレスじゃなくてわたしの場合は、
「親の離婚で引っ越さなければならなくなったわたしに小学校の同級生が、思い出に、とくれた下敷きを目の前で折られる」
という、なんつーか……、
マ、マンガかよ⁉ みたいなベタないじめでした。
と、大人になってこうして振り返ることができるのは、本当いいですね。
これを読んで嫌なことを思い出した人もいるかもだけど、今こうして、わたしが元気に文章を書けていることが全てです。
そして、今、この回を読み返して思うんだけど、大人になってもこの山根みたいな子っているんですよねー。
あえて、子、と言います。
間違いなく、酷い目にあっているのはきら子なんだけど、実は周囲に馬鹿にされきっているのは山根なんだよね。切ないことに。
きら子には夢子がいるけれど、山根には多分、誰もいない。自分の弱さや苦しさを話せる相手が。
これが、本当に一番切ないところだと思う。
そして、今、誰にも言えないことで悩んでいる子がいるなら。
こちらの窓口を利用してください。
第三者じゃなきゃわからないこと、言えないこと、たくさんあるし、ただ話をするだけで、気持ちがふっと楽になる時もあるよ。
今まで、オンラインで人の相談を受けるのはしたことなかったんだけど、この小説の公開を始めて、いじめについてなら、LINEライブとかで話したいな、と思いました。あの頃のわたしみたいな中高生と話したい。
ただ、一人で動画やるの向いてないんですよね、わたし。途中で毎回詰まるんですよ……。
いじめテーマでお話しできる相手がいたら、ライブ配信やってみたいなあ。
ご興味ある方、よかったらコメントかメッセくださいね。
全12回、ゆっくり、お付き合いください。
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