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【小説】it's a beautiful place[21]この島にいれば容易にそんな暮らしが手に入る。永遠に海と空を眺めながら、一人の誰かを見詰める暮らし。

21
 
 アパートのドアをそっと閉めて、私は和泊の町へと歩き出した。タクシーはこの朝方に走っている筈もない。私はどうしようかと思いながらとぼとぼと海岸沿いの道を歩いた。老夫婦が朝の日課なのかウォーキングをしていた。二人、同じように皺くちゃになった顔で笑い合っては、手を大きく振り歩いていく。きっと、彼らはこれから朝食を二人で食べ、夫は仕事をし、妻は家事をして、夕方を待つのだろう。そして戻ってきた夫に妻は食事を出し、軽く晩酌をして、今日も一日が終わったと、海に沈む夕陽を眺めながら微笑み合うのだろう。

 この島にいれば容易にそんな暮らしが手に入る。永遠に海と空を眺めながら、一人の誰かを見詰める暮らし。東京にいたらまるで夢物語としか感じられないようなそんな暮らしが、この島にはそこかしこに当たり前のように転がっているのだ。

 海は今日も青かった。空は相変わらず馬鹿っぽいくらいの青さだ。砂浜も限りなく何処までも白い。私はそれを眺めながら大通りをひたすらに歩いた。

 足が疲れてきた頃、ちょうどバス停が目に入った。時刻表を見ると、あと十分ほどでバスが来ると書いてある。私はそのバスに乗り込んだ。

 島のバスは全て周遊式で、路線は右回りか左回りかのどちらかだけである。乗り込んでから気付いたのだが、そのバスは知名とは逆の方向、空港の方まで行ってから島の反対側を一周して知名へ行く遠回りの路線だった。けれど、今更降りる気もせず、私はバスの最後尾の席に腰を下ろした。国頭のあたりまで行った時、バスはなんでもない道端で止まった。後ろから小学生達が手を振りながらやってくる。乗ると手をあげさえすればバス停でなくても何処でも島のバスは止まってくれるようだ。運転手は「お父さんは元気か、今度は俺が飲み負かすからと伝えておけ」などと小学生達に話しかけている。この島ではやはり誰もが知り合いなのだ。

 砕けた珊瑚で出来た白砂の道をバスはひたすら走っていった。道の脇にはハイビスカス、ブーゲンビリア、シダ、ソテツ、ガジュマルが、我が物顔で茂っている。さとうきび畑が風を受け、一斉に穂をなびかせた。

 どの道も通った事のある道だった。拓巳と、美優と、悠一と、龍之介と、一緒に車で通った道。バスは古く、エアコンが時折がたんと音を立てた。速度はあくまでもゆっくりで、対向車は滅多にいない。ふと気付けば、いつの間にか乗車している客は私だけになっていた。

「あらお嬢ちゃんが貸切よ。よかったなー」

 運転手が振り向いてそう言った。その日焼けした顔は龍之介と何処か似ていた。

 バスはゆっくりと知名へと向かって行く。途中、運転手は自動販売機でジュースを買い、私にもお茶をくれた。私はそれを飲みながらひたすらに窓からの風景を見ていた。

 この道でいのししが出てきて驚いた。この道で拓巳がジュースをひっくり返し車内が大騒ぎになった。近道をしようと美優と二人でわき道に入ったら民家に続く行き止まりで、仕方なくUターンしようとして一端車から降りたら、その家の住人に声をかけられ、そうこうしている内にお菓子とお茶をご馳走になった事もあった。人の家に生えていたパパイヤを食べようとしたら既に鳥に食い荒らされていて、がっかりした事もあった。台風の後、島がどうなっているか観察しようとしたら、洗濯機が道端に転がっていて大笑いしたのはここだ。私は一つ一つの思い出を噛み締めるように胸に広げてバスに揺られていた。

「これで島全部見られたっちょ。よかったなー」

 バス代を払う時、運転手は日焼けした顔で笑ってそう言った。その笑顔はやはり、龍之介に何処か似ていた。ずっと、こうしたい。私は昨日の龍之介の言葉をもう一度思い出しながら、まだ龍之介の唇の感触が残る首筋を撫でた。

 知名のバス停からアパートまでは少々歩かなければならなかった。私はそのまま帰る気がせず、少し歩いておきえらぶフローラルホテルの方へ向かった。海沿いにあるホテルの前には公園があり、ベンチやあずまやがある。私は木陰の芝生に腰を下ろした。

 服が何だか湿って感じられた。あれだけ汗をかきながら体を押し付けあったのだから無理もなかった。そう思った瞬間、体中にまた龍之介の唇の感触が蘇ってきて、私は唇を噛んだ。こんな風にもっとと思ってしまうから、一度欲しくなるとどんどん欲しくなるから止めていたのに、今更。私は服の衿を掴んで息を吐いた。
 
 部屋に戻ると美優は何も詮索せずに私を出迎えてくれた。昨日、悠一と会った事を私は伝えていたから、きっと今日も悠一と話していたと思っているのだろう。私も何も言わず、寝巻きに着替えた。眠り足りないから寝ようと思ったものの、布団に寝転がっても一向に眠くならなかった。私、買い物に行くね、と美優は言う。私はそれに布団にくるまったまま、手を振った。

 寝返りを打ちながら、周囲を見るとはなしに長めた。そうしているとカラーボックスの上にある珊瑚の欠片が目に入った。龍之介がくれた珊瑚。あの時はこれを貰っただけで胸がいっぱいだった。それどころか、ただ和泊で偶然会っただけ、手を振ってくれただけでどうしようもなく体中が喜びに弾けた。

 そして、私はその全部が今だけの儚いものだと何処かでわかっていた。多分、龍之介も同じだろう。だから、私達はあんな風に冗談めいた言葉を無責任に言い合うだけに留めていたのだ。よくある話と龍之介は言った。そして、私も島の男に口説かれるなんてよくある話だと思っていた。私達は何かを期待することを最初から諦めていた。期待さえしなければ、責任も発生しない。もっと欲しいと願う苦しみもない。

 私は布団を頭からかぶり、無理矢理に目を瞑った。瞼の裏に昨日初めて見た龍之介の顔の数々が浮かぶ。それを振り払いたくて私は更にぎゅっと瞼に力をこめた。
 
 出勤前、今日はオーナーがもう一つLINDAの他にやっている店に私は寄った。沖縄からの飛行機のチケットを手配したから取りに来いとオーナーに言われたのだ。この島から出る日は、あと二週間後に迫っていた。私は「もっといればいいのに」などとオーナーに言われながらもそのチケットを受け取った。記された二週間後の日にちを見て、私は早過ぎると思った。あと一ヶ月もないのだ。当たり前の事だというのに、わかっていたというのに、私はそれに驚いた。あと一ヶ月もない、なのに。そう思うと、昨日の事が蘇り、また私は唇を噛み締めた。最後の最後でこんな風にしてしまった自分が憎らしかった。いっそ全部忘れてしまいたかった。けれど、まだ血の味が微かにする唇がそれを邪魔した。

 オーナーの店からLINDAまでを歩きながら、私は知名の街角に龍之介の面影を重ね合わせていた。初めて会った日のクアージへと入る細道、ピュアゴールドの前で車を止めて私を待っていたあの日。その日、初めて昼間に龍之介と会った。そしてLINDAの前、いつも私を待ち伏せたあの角、昨日初めて口付けたこの場所。私はそこを通った時、ふとまた龍之介に後ろから抱きしめられたような気がして思わず体を縮めた。忘れたいと思ったのに全くそれが出来ていない自分が情けなかった。負けたような気持ちで店のドアを開けた。すると、そこには龍之介がいた。

 まだ開店して間もない店にお客は龍之介一人だけだった。サリさんのなまりの強い早口の言葉に笑いながら、龍之介は焼酎を飲んでいた。私はそれを見て、その場に固まった。サリさんが「ほら、お待ちかねの奈都ちゃんが来たよ」と言った。私はあたふたしながら上着とバッグをバッグルームに置いた。サリさんが手招きをした。行かない訳には行かなかった。私は龍之介の隣に、体を離して座った。

 それからしばらくはサリさんを交えて、いつものような島の噂話で盛り上がった。私はほとんど何も喋れず、戸惑いのあまりに龍之介の顔も見る事も出来ず、ただひたすら灰皿を取替え、テーブルを拭いた。龍之介も私に特に話しかけず、サリさんと話を続けていた。店に電話がかかってきてサリさんが席を外した。「じゃあ、あとは二人で」と言って去っていく。

 二人きりにされた途端、沈黙が流れた。私は焦りながら何を話そうか、何から話すべきかを迷っていた。すると、龍之介がぽつりと言った。

「朝起きたらいないからびっくりしたわ。お前、なんで帰ったの」
「バス。逆回りの路線に乗ったからすごい遠回りしちゃった」
「何してるっちょ。送ってこうと思ってたのに」
「いいよ、そんな」

 すぐさまそう言ったら、その言葉は妙に冷たく響いた。龍之介が私をじっと見た。その目で昨日の夜の事がまざまざと思い出されて、私は目をそらした。龍之介が私のその様子を見て諦めたように息を吐いた。

「電話番号知らんし。来るしかなかった」
 その言葉に私は顔を上げ、龍之介を見た。
「一人で飲み屋来るなんて初よ。恥ずかしいっちょ」
 龍之介はそう言って照れたように笑った。私はその言葉にも何も答えず俯いたままでいた。
「奈都」

 龍之介が私の名前を呼んだ。ただの呼びかけではない真剣な口調だった。私はそれに胸を掴まれてますます俯いた。「なぁ」と焦れたように龍之介が繰り返す。私はそれにも答えられなかった。龍之介はソファに体を預け、宙に向かって息をついた。

「俺、これからバイトなのよ。もう行かなきゃいけん」

 私はその言葉に初めて顔を上げて龍之介を見た。龍之介の昼の職場は和泊にある。昼の仕事が終わってから知名へ来て、またすぐに和泊に戻る。昨日もほとんど寝ていないだろうに、龍之介はそれ程までの手間をかけて、ここに来ているのだ。

 薄暗い店の中で沈む龍之介の横顔は、心なしか頬がこけて見えた。私はそれに胸を痛めた。

「一時には終わるから、それから迎えに来るから起きて待っててくれんか」
 龍之介が、私に顔を向けそう言った。
「駄目だよ」
 私がそう答えると、龍之介はあからさまに傷ついた顔をした。
「だって龍之介、昨日も寝てないでしょ。今日は寝ないと」

 そう続けると、途端に思い切り龍之介は笑った。あの、いつもの顔全体で喜びを現すようなくしゃくしゃの笑顔だ。そして、いつものようにからりと言った。

「そんなん平気よ」
「平気じゃないってば。龍之介、頬がこけてるよ。私も眠いし」

 そう言うと龍之介はがっかりした表情を見せたものの、すぐに引き下がり、代わりに言った。

「じゃあ、明日は」

 もう断る理由を見つけられない。私は困って口をぱくぱく開けた。龍之介が眉をひそめてそっと聞いた。

「嫌か」
「嫌な筈」

 そう言い掛けながら私は口を閉じて、けれど、龍之介にはその言葉が既に聞こえていて、また龍之介はいつものあの笑顔をした。もう逆らえない。そう思って私は頷いた。一応、電話番号。龍之介は照れ臭そうに携帯を出した。電話がないからと言って今日ここまで来てくれた龍之介の事を思うと、それを断る理由を見つけられなかった。私と龍之介はようやく今になって電話番号を交換した。

「明日な」

 龍之介はそう言ってまた少し笑ってから、店から出て行った。

 上の空で店の営業を終え、私は部屋へと帰った。美優は何処かへ出かけていていなかった。私は部屋の隅にうずくまり、膝を抱えた。龍之介、と胸中で呟く。自分から今日会う事を断った癖に会いたいと思う。けれども会ったら。

 バッグの中には帰りの航空券がある。カラーボックスの上には龍之介がくれた珊瑚がある。ここに着いてすぐに買ったビーチサンダルはもう古ぼけた。朝の和泊を二人で散歩する老夫婦の事を思い出した。あのようにずっとここにいる事も出来る。けれど、私は。

 耐え切れなかった自分を私は嫌悪した。もう私は帰るというのに、どうして今更あんな風にしてしまったのだろう。明日は言わなければならないと私は自分に言い聞かせた。その時、龍之介がどんな顔をするかは想像したくなかった。私は混乱した心を無理矢理に押し留め、眠りについた。

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私の作品紹介

忘れられない恋物語

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。