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【小説】it's a beautiful place[20]見ないようにしてきたのは、それを見たらもうどうしようもなくなってしまうからだ。それを知ったら後戻りは出来ないからだ。

20
 
 目覚めると美優は既に起きていた。買出しに行ってきたようで台所に野菜が積みあがっている。どうしたのと聞くと久しぶりに料理でも作ろうかと思って、と美優は答えた。奈都ちゃんも食べる、と聞かれ、私は頷く。美優は笑って待っててね、と言って台所に立った。

「店にはもう出ないけど、寮には契約終了までいていいってオーナーに言われた。だから、私、奈都ちゃんが帰るまでこの島にいるよ」

 これからどうする、と私が聞く前に美優は答えた。どうやら私が寝ている間に美優はオーナーに交渉をしていたようだった。

「それまでどうするの」
「これからどうするかゆっくり考える。まだ地元には戻りたくないんだ。関東の方戻るなら地元から離れて一人で暮らしたい。だから、他の所でもう少し稼ごうかなって考え中」

 リゾートバイトで来た女達は島から島へと移る事が多い。携帯で探せば求人はいくらでも見つかるのだ。美優はその中のどれかに行こうかと考えているようだった。

「奈都ちゃんは? 東京戻るの?」

 美優にそう聞かれ、私は頷いた。

「そっか」

 美優はそう言って、また料理へと戻っていった。

 初めて、この島に来てから東京に戻ると私は口に出した。ついこの前まで、本当は迷っていた。あと三ヶ月この島にいようか、それとも他の島に行こうか。けれど、何となく私は気付き始めていた。そろそろ夏は終わるという事を。

 美優が作ってくれた食事を食べ、私は部屋を出た。着信履歴に残っている03で始まる番号に電話をかけた。もうすぐ、戻ります。長い話の最後、私はそう言って電話を切った。
 
 電話の後、まだ眠り足りなかった私は昼寝をして、それから店へと出た。美優は部屋に残り、何やらノートに字を書いていた。手紙を書いてみたら自分の心の中が整理出来たからいろいろ書いてみようと思ったそうだ。整理できたら拓巳にも手紙を書くかもしれないと言う。その方がいい。黙って島を出るよりその方が何倍もいい。私は、昨日よりも明るい気持ちで店へと出勤した。

 もうこの店にいるのもあと少しだと思うと、何だか感慨深かった。革の破れたソファも、空だというのに見栄で置いてあるコルドンブルーも、よく下水が逆流して異臭を放っているトイレも全てが何だか違って見える。サリさんの化粧は相変わらず前時代的な厚化粧だけれど、それすらも愛おしい気がした。米軍基地があった時代からある場末のスナック。自分がここで働くなんて最初は信じられなかったけれど、気が付けばあっという間に馴染んでいた。この呑気で適当な店が好きだと私は思った。ダウンライトに照らされた韓国のフィリピンの沖永良部の東京の女達。何故かわからないけれど出会った人々。

 その日はお客は少なかったけれど、なんと私達の部屋に勝手に物干しをつけた管理人が初めて店に来て、私は思わず大笑いしてしまった。彼はさんざん飲んで酔っ払った後、私に「君はしっかりしてていい子だからうちの甥の嫁に来ないか」としつこく言い、「ごめんなさい、私、東京に戻るんで」と言うと、「何故だ、金には困らんように絶対にするぞ」と言い募った。相変わらずの勢いが良過ぎるおせっかいぶりに私は更に笑って、一杯千五百円もするカクテルをばかすか頼んで飲んだ。最初から最後まで管理人だ。そう思って私はまた一人で笑った。

 管理人が帰ると、サリさんと付き合いの長いお客が一人残るだけで店は暇になった。私は管理人の相手で疲れた肩を回し、洗いものをしてカウンターの隅の待機席に座った。その時、ドアが開く音が聞こえた。振り返ると、龍之介がいた。後ろにはシュウもいる。

 私はスツールから飛び降りて龍之介の元へと走った。

「龍之介だ! バイトは?」
「今日は店が定休」
「全く相変わらず奈都ちゃんは俺を相手にしてくれん」
「そんな事ないってば。シュウ、久しぶり」
「どうせ俺はお邪魔虫よ」

 むくれたシュウを龍之介がいなした。私はボトルの置いてある棚へ走って、二人の席を作った。龍之介の隣に座り、水割りを作り出した。

「ほら、当然みたいに龍之介の横座って。全く妬けるわ」
「どっちに妬けるわけ?」
「奈都ちゃんによ。俺、龍之介大好きだもん」
「龍之介もてもてだね」

 いつもの調子、いつもの会話が続いていく。もう彼らはこの店には来ないだろう。そう思っていた私には嬉しいサプライズだった。龍之介は焼酎を口にそのまま流し込むように飲みながら笑っている。シュウはいつものようにおどけて私と龍之介をからかいながらやっぱり笑っている。いつものように焼酎が凄いペースで空いていく。誰もが肩をぶつけ合って笑い合う。

 何だか永遠にこうしていたような気がした。今までもこれからもずっとこうやって龍之介の隣にいて、シュウや真二や幸弘にからかわれて笑い合っていたような。ソファの肘掛の上で私と龍之介の手が偶然触れ合った。この前の車の中での事を思い出し、顔がかっと熱くなった。龍之介も同じ事を思い出したようだ。またあのあえて作ったような何食わぬ顔をしている。肘掛の上じゃ手は隠れない。そんな風にがっかりした自分がいて、それが恥ずかしくて私は俯き、酒を飲み干した。

 龍之介がこっちを見ていた。私はそれに気付かぬ振りをした。テーブルの下で足がぶつかった。ごめん、と言おうとして龍之介を見上げたら目の下が薄く赤く染まっていた。酒のせいもある。けれど、それだけではない。きっと私も同じ顔をしているのだろうと思いながら、私は自分の頬を撫でた。
龍之介もシュウも幸弘や美優の事に触れなかった。相変わらずくだらない話ばかりして場を盛り上げている。それで私は、龍之介が私の事を気にして来てくれたのだと気付いた。美優が地元へ戻った日、「寂しいだろ」と言って来てくれたように。

 私は龍之介の顔を見上げた。相変わらず何食わぬ顔をしていた。どうしてこの男はこんなに。そう思った後の言葉が思い当たらず、私は目を伏せた。こんなに。もう一度胸の中で繰り返しながら、私は肘掛に置かれた龍之介の手をじっと見詰めた。

 結局、龍之介とシュウは営業終了時間まで店にいた。客が少なかったので、片付けは手早く済んだ。私はバッグを持って店から出た。いるかな、と思いながら辺りを見回す。案の定、シュウと龍之介が店の横の駐車場の壁に寄り掛かっていた。

「やっぱりいた」

 私は笑ってそちらに近付いていった。

「俺らもう駄目っちょ。今日飲み過ぎた」
「いつもでしょ」

 そう返すと龍之介が顔を真っ赤にしたまま力なく頷く。どうやら本当に酔っているようだ。私は龍之介の肩に手を置き聞いた。

「大丈夫?」
「大丈夫じゃない、かも」
「嘘、お水飲む?」
「いや、いいっちょ」
「飲みなよ、買って来るから」

 そう言って自販機に向かおうとした私の手を、龍之介が掴んだ。私は息を飲み、足を止めた。この手に包み込まれる感触を体中が覚えていた。手のひらの温かさも湿り具合も肉の厚みも、ところどころある皮膚の硬くなった部分の感触も指の節の骨も。私は唾を飲み込んだ。思いがけず大きな音が出て、その音があたりに響かないよう祈った。

「いいっちょ」

 私の手を掴んだまま、龍之介がうな垂れて言った。

「わかった」

 私は力なく手を握られたまま、小さく答えた。

 一瞬、沈黙が流れた。龍之介は私の手を握ったままだ。私はその手から自分の手をそっと引き抜いた。その時、龍之介が顔を上げた。唇は、言えない言葉の息だけでも逃したいと願うように半分だけ空いていた。眉がひそめられていた。私はその表情に虚をつかれた。いけない、と思った。何か誤魔化すような事を言わなければ。そう私は思い、シュウに何か話を振ろうとした。シュウのいる背後に向かって振り向く。ねぇ、と言いかけた瞬間、シュウがその言葉を遮り、言った。

「龍之介は奈都ちゃんが好きよ」
「え」

 シュウの言葉に私は固まった。その逃げ道のない直球の言葉は、私と龍之介が冗談以外では絶対に口にしないようにしていた言葉だった。思わぬ所から投げられた直球に、私も龍之介も身動きすら出来なかった。

 シュウは、私を真っ直ぐに見詰めて言葉を続けた。

「いつも龍之介は奈都ちゃんの話してる。奈都ちゃんの事、可愛い可愛いっていつも」
「もう、口が上手いな。誰にでもそう言ってるんじゃないの、全く」

 明るい口調で私はそう言って、いつものように場を流そうとした。そうそう、可愛いよな、サリさんも。そんな風に龍之介が言ってくれればいいのだ。そうすれば、その場は流れて、全く気が多過ぎ、なんて返せば全部終わる。そうするのがいつもの私達のやり方だった。

 私は龍之介の方を見た。龍之介は何も言わずに、私から目をそらした。私はもう一度、シュウを見た。シュウは自分は関係ない癖に傷ついたように顔を横に向けていた。私は、それで、自分が失策を犯した事を知った。

「え、嘘、本当? でも、龍之介、私」

 うわ言のように言った無意味な言葉の羅列で、全てが語られていた。私達はお互い何処を見ていいのかわからないまま、風に髪を梳かしていた。龍之介の唇がもの言いたげに動いた。私はその唇を手で塞いでしまいたい衝動にかられた。

 いつも波の音がするこの路地で、いつもここで私達の仕事が終わるのを待っていた龍之介達の風景が脳裏をよぎる。はしゃいで、笑って、私を待ち、私を見つけたらいつも満面の笑みで迎えてくれた龍之介。

「俺、帰るわ」

 シュウはそれだけ言うと、あっという間にタクシー乗り場の方向に立ち去って行った。残された龍之介と私は、お互い目を合わさぬまま、しばらくその場に立ち竦んでいた。ピュアゴールドから酔っ払い連中が騒ぎながら出てくる。この角は死角になっていて通りからは見えない。騒がしい島言葉が遠ざかり、また海風の音だけが二人の間を流れた。龍之介は俯いたまま、ひたすらに無言だった。

「龍之介」

 その声に答えて、龍之介が弾かれたように顔を上げた。顔は依然赤いままだったけど、瞳が素面だった。小さな声で私は聞いた。

「さっきの本当?」

 龍之介は力なく壁にもたれかかり、顎を上げて空を仰いだ。それから自嘲するように少し笑って、額に手を当てた。ぼそりと、言った。

「言わんようにしてたのに」

 私は次の言葉を祈るような気持ちで待った。どんな答えが返ってくる事を祈っているのかはわからなかったけれど、息を飲み、ただひたすらに待った。海風がまた二人の間をすり抜ける。シダの梢がざわざわ揺れる。その音が収まった時、龍之介が口を開いた。

「シュウ、あいつ、本当、口軽いわ」

 途切れ途切れに、息も絶え絶えというような口調で、龍之介はそう言った。私はその言葉の意味が胸に降りて来るのを感じながら、ただ龍之介を見詰めていた。龍之介の手が、もう一度、私の手に伸びてきた。

「奈都」

 私は龍之介に握られた手を見た。それから龍之介を見た。戸惑いのあまりにあたりを見回した。けれど、そこには誰もいなかった。そして、もう一度、龍之介を見た。その瞳の色で、もう冗談と逃げ道を龍之介は捨てたのだと私は知った。けれど、こうしてまだあたりを見る私は、まだそれを探しているのだ。見ないようにしてきた自分の狡さを、私は初めて自覚した。そうしたら、胸が痛くてならなかった。見ないようにしてきたのは、それを見たらもうどうしようもなくなってしまうからだ。それを知ったら後戻りは出来ないからだ。湧き出る感情はまさかと自分でも驚くくらいだった。まさか。その言葉は、自分にもそして龍之介にも当て嵌まっていて、私はもう言葉も見つからず、ただ堪らず漏れ出る吐息のように、龍之介の名前を呼んだ。

「龍之介」

 龍之介が顔を上げた。続く言葉を見つけられず、私はただ龍之介を見詰めた。言えない言葉を探して唇が動く。龍之介の手が私の手を強く引いた。巻き戻されるテープのように私の体はすっぽりと龍之介の胸の中に納まった。胸の鼓動の音の間で、息の音が激しく響く。どん、と鳴る心臓の音。ひゅうと吐く息の音。龍之介のTシャツ越しに触れる胸はむせ返るように熱かった。私はもう息が出来なくて、そこから逃れようと顔を上げた。目の前にある龍之介の顔も熱さにやられているかのように火照っていた。龍之介の瞳が一直線に降りてきた。唇が薄く開いた。そう、喉が渇いている。私も龍之介も。そう思った瞬間、唇が降りてきた。

 躊躇いがちに触れた唇は、互いの感触を掠めただけであっけなく理性を失くした。私達はもっとと欲しがり口を開け、互いの唇を丸ごと吸いあうかのように激しく口付けた。首の後ろに置かれた手のひらが、逃がさないというように力強く私を掴む。私も龍之介のTシャツを、溺れそうな流されそうな何かから攫われないように強く掴んだ。唇を離し、息を吸う。唾液が互いの口の間で糸を引く。その糸が切れる前にまた口付けた。腰に回った龍之介の手が、体中をすり合せるかのように私の体を引き寄せた。私も龍之介の首に手を回した。龍之介が、両腕で強く私を抱きしめた。堰切るように激しいキスだった。

 壊れた堤防からなだれ込むように溢れた感情に、私達はあっという間に溺れた。それから呼んだタクシーで足を絡ませ、腕を絡ませ、唇は行き先を告げる以外には一度も言葉を発さずに、ただ互いを貪りあっていた。この狭い島でこんな事をしていたらすぐに知れ渡る。けれど、私達は一瞬一秒も離れたくなくて、もがきながら沈み、沈みきった体をまた引き上げ、それから二人でまた溺れた。

 タクシーが止まったのはマルから程近い和泊の倉庫街だった。タクシー代金を払っている龍之介より先に降り、私はあたりを見回した。海風に誰かが捨てたビニール袋があおられてひらひらと消えていく。タクシーが走り去る音ががした。そして、龍之介に後ろから肩を抱かれた。

 アパートの廊下を龍之介の手にひかれながら歩いた。何か言おうとした私を龍之介は制した。声が響く、と小さく囁く。私は言葉を飲み込み、唇を噛んだ。今更、と思いながらもまだ迷っていた。

 ドアを押さえ、龍之介が私を先に部屋に入れた。靴を脱ぐ前に龍之介が私を後ろから抱き締めた。唇から首筋をかすった。そこだけが火傷をしたかのように熱く燃え上がる。私はよろめいて玄関にあるシューズボックスの上に手をついた。置いてあった鍵がちゃりんと床に落ちる。

「鍵」
「いいよ」

 龍之介は私の腰に手を回し、耳元で息をついた。私はそれにかき乱され戸惑った。だから、靴を脱ぎ、龍之介の手を避けて部屋へと入った。

 服や帽子や靴が散乱する乱雑な部屋だった。テレビが床に直で置かれ、後はベッドと低いテーブルがあるだけだ。行き場所のない私はテーブルとベッドの間の隙間に座り込んだ。龍之介が水のペットボトルを投げてよこす。私はそれを受け取り、開けて一口飲んだ。龍之介が私の横に座った。私はそれに体をびくりとさせた。

「奈都」

 龍之介が囁くように言った。私はそれに答えずまた水を飲んだ。

「なんで無視する」

 龍之介が少し笑ってそう言った。私はそれにも何も答えなかった。龍之介がまた私の肩を抱いた。私はそれから身をよじって逃れた。龍之介の手がそのままの形で宙に浮いている。龍之介が私の顔を覗き込んで言った。

「嫌か」

 嫌な筈がない。嫌な筈がないのだ。けれど、私は。言わなければ、と思って顔を上げた。その瞬間、抱きすくめられた。顔中に唇が振ってきた。そして、もう言葉は消えた。

 腰に両手が回った瞬間にずっとこうされたかったのだと気付いた。あの和泊から知名へと向かう車の中で触れたのは片手だけだった。今、服の隙間から入ってくる龍之介の手に、私は、そうあの時も本当はこのように両手で素肌を撫でさすって欲しかったのだと知った。私達は服を脱ぎ、抱き合った。

 初めて触れる裸の胸に、隙間を一ミリも許さないかのようにぴたりと寄せ合った。龍之介の胸から汗が流れた。私はそれに更に肌を摺り寄せた。これが接着剤のように互いの胸を張り合わせてしまえばいい。龍之介が、一瞬体を離した。汗で濡れた胸を夜風がそっと撫でた。白いカーテンがふわりと揺れている。窓から港の漁船の灯りが瞬いて見えた。龍之介は苛立つように立ち上がり窓を閉め、カーテンを閉めた。私はいきなりに暗くなった視界に目が慣れず、裸の胸をかき合わせるように隠しながら一瞬呆けた。暗闇に蠢く影がすっと私の元に来た。そう思ったら、私はベッドの上にいた。

 シーツの感触が冷たかった。ぽすっと軽い音がして私の頭は枕に乗った。枕からは龍之介の匂いがした。瞳が暗さに慣れ、部屋の状況が見えるようになった。この天井を眺めて龍之介は眠っているのか。私は板を組み合わせたような柄の天井を見ながらふとそう考える。私の手のひらに龍之介の手のひらが組み合わされる。それだけで、もう私は何もかもが龍之介に敵わない事を知った。息を吐いた。その息の吐く音と同時に、龍之介の唇が首筋に降ってきた。

 私の上にいる龍之介は、祈るような顔をしながら、私の体のそこかしこを無心に吸った。目を瞑り、幼子のように無邪気な顔で。時折、龍之介は不安げに私を見上げた。私はその顔に躊躇いながらも息を吐きかけた。龍之介は私の髪を撫でた。頬を撫でた。唇を撫でた。首筋も脇腹も背中も腕も、何処もかしこもなぞるかのように撫で擦った。その度に私の足先は小さく震えた。

 こんなにも人に大事にされた事はないと思った。自分が宝物になったような気持ちだった。連れ去られそうになる意識を引き戻して、私も龍之介に触った。背骨を、鎖骨を、肩の広い筋肉を、肋骨を、腰骨を、大きな手首の骨も、滑らかな肘も、そこだけ私の肌よりもずっとすべすべしている内腿も。足の間に手が触れた時、龍之介はとても苦しげな顔をした。幾度か瞬きを繰り返し、それから目を閉じる。龍之介も私の足の間に手を入れる。私は息を吸い、それから小さな悲鳴をあげた。それと同時に龍之介も大きく息を吐いた。その息を逃す事すらもうしたくなくて、私はまた龍之介に口付けた。互いの手が激しく動く。上からも下からも音を立て、体は今にも蒸気を吹きそうにもっと濡れて熱くなる。

 あぐらをかいた龍之介の上に乗せられた。龍之介が私をのけぞらせて体中に口付けた。髪の中から耳元、頬骨から首筋、鎖骨、胸、薄く浮いた肋骨に滑らかな腹に溶け出しそうな内腿に。もう耐え切れなくて私は龍之介の肩に両足を乗せた。龍之介が入ってきた瞬間、私は自分の顔の横に柱のように立つ龍之介の腕を掴んだ。

 名前を呼んでくれればいいと思っていた。あの顔全体で笑う笑顔が見られればいいと思っていた。けれど、私は本当はこれが欲しかった。どうしようもなく欲しかったのだ。

「ずっと」

 龍之介が体を動かしながら言った。

「こうしたかった」

 私もだ、と言いたかった。けれど、入ってくる龍之介の感触に押されて潰れたかのように言葉は喉の奥で掻き消えた。私は何も言えずに龍之介の腕を更に強く掴んだ。唇の隙間から漏れる息の間を縫い、龍之介、と何度も名前を呼んだ。龍之介が私の上へと倒れこんでくる。先ほどよりも湿った息で耳元で私の名前を何度も呼ぶ。欲しかったのはこれなのに、そしてそれは今そこにあるのに、もっと欲しいと私は願う。もっと欲しい、もっと何処までも。そう思ったら遠くに連れ去られて、私は龍之介の背中を強くかき抱いた。
 
 シャワーを借りている間に、龍之介は眠りについていた。そう言えば龍之介は朝から仕事だと言っていた。口を開けて寝る龍之介の顔は疲れていて、私は彼を起こさぬよう水を飲んだ。それから、私は床に横になった。

 同じベッドに寝る事など出来なかった。これ以上、龍之介の体温を覚えたら、もう耐えられない。今ですら、手のひらの一つ一つの感触、指の関節の味、唇と舌の柔らかさ、重ねた肌の熱さが、まだ生々しく残っている。これ以上、それを覚えるのも味わうのも怖かった。私は、タオルケットをかぶって耳を塞いだ。

 ふと目を覚ましたらもう朝だった。カーテンの間から朝の光が部屋に差し込んでいた。龍之介はまだ眠っていた。ベッドの端に寄り、私が眠る筈のスペースを空けていた。

 その瞬間、体中を掻き毟るような痛みを覚え、私は喉を詰まらせた。

 私は出て行くのに、東京に帰るのに、龍之介は私がいる場所をこのように作っている。

 許容量を越えた映像が視界に浮かび、私はそれを振り払いたくて、目を閉じた。すると、息も詰まるような痛みがほとばしり、私は呆然と頬を撫でた。そして、自分の冷たい肌の感触に、龍之介の唇もここに触れたと気付いた。瞬間、体中に残るキスに殺されてしまいそうな気がした。皮膚を一枚はがして、ここに捨て去っていきたかった。そうでもしなければ、ここを動けそうになかった。嗚咽を喉の奥で止めるために唇を噛み締めた。昨夜、めちゃくちゃに吸われた唇の皮は脆く破け、血が染み出た。苦い、そして苦しい味がした。

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私の作品紹介

忘れられない恋物語

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。