【小説】it's a beautiful place[24]東京はそれ以上という気持ちをいつも刺激する街だ。もっともっと、という気持ちを持たなければいけないような気分にさせる街だ。
24
部屋に戻って少し寝てから起き出し、私達は荷物をまとめ始めた。ダンボール二箱分の衣類を持ってきても、結局よく来たのは一箱分にも満たなかった。自分がどれだけ余計なものを持っているかを知り、私は着なかった服はどんどん捨てた。洗剤やシャンプー、食器や鍋類などは次に来るアルバイトの子の為に置いていった。島の温度で劣化した化粧品類も捨てた。私はカラーボックスに置いてあった珊瑚を手に取った。
「それ、大事そうに置いてあったね。どうしたの?」
美優が私にそう聞いた。
「綺麗でしょ。気に入ってるの。ハートの形してるんだよ」
そう言って私はそれを荷物に入れるかどうか悩んだ。手荷物に入れてもいいが、その方が壊れる危険性がある気もした。まだ荷物を発送するまで時間がある。私は珊瑚を元にあった場所に戻した。
知名図書館で借りていた本を返しに、私は外出した。後で美優とはピュアゴールドで落ち合う予定だ。お金のない私達はお客におごってもらう以外の外食を控えていたが、最後だし、ということで昼食をそこで取るつもりでいた。島の味付けは油も塩も砂糖も多い濃い味だ。こんなの太っちゃうよ、と言いながらも、いざ離れるとなると食べておきたくなった。
知名図書館は相変わらず静かで、図書館内には司書が一人とソファでうたた寝をする老人しかいなかった。返却口に本を返すと司書からもうすぐ帰るんだってね、と声をかけられた。借りに来てくれる子あんまりいないから残念だわ、と彼女は続けた。こんなに綺麗な図書館なのにもったないですね、と私は答えた。そうよ、冬は窓から鯨が見えるのよ。司書はそう言って窓の外を指した。一面の窓から広がるこれまた一面の海。輝く水面を眺めながら本を読む贅沢さもこれからはなかなか望めない。私はその風景をもう一度見て、それからピュアゴールドに向かった。
ピュアゴールドは、夜の営業だけではなく、昼は喫茶営業もしている。私達は昼のランチセットを頼み、追加でスパム玉子も頼み、ついでにジントニックも頼んで乾杯した。昼間飲む酒はやけに回る。私と美優は陽気な気持ちになってもう一杯頼んだ。ねぇ、拓巳を呼ぼうよ、と美優が言い出した。拓巳に電話をかけてみるとちょうど仕事の間の休憩時間中だった。昼間から女二人飲んでるって駄目人間の匂いぷんぷんするわ。そう言いながらも拓巳も一杯飲んで帰り、あんただって人の事言えないよ、と私達は笑った。
こんな風に誰もがすぐ近くにいて、待ち合わせなどしなくても誰かを呼び出せて遊べるのもこれが最後だ。けれど、今、私はこれが最後ではない、と思っていた。きっと、どんな場所にいても今この時のような気持ちで生きていく事は出来るのだ。そういう場所を、これから私達は自分で作っていくのだ。
少しふらついた足取りでアパートの階段を登り、私達は部屋に戻った。
「駄目だ、まだ眠い」
美優はそう言ってまた布団をかぶり眠った。私は彼女の眠りを邪魔しないよう、もう一度外に出た。この島の風景を出来るだけ見ておきたかった。
国道をひたすら歩き、知名港までついたところで電話が鳴った。私はそっと着信画面を見た。龍之介だった。嬉しさと怖さがない混ぜとなり、私は足を止めた。息を吸い、電話に出た。
「もしもし」
「おう。お前、店っていつまでいる?」
「昨日で最後」
「何よ、シュウと二人で行こうかと思ってたのに」
「遅いよ」
「違うわ、お前が早い」
話し始めたら何だか普通になってしまって、拍子抜けした気分だったが、その言葉で私は息を飲んだ。そうだ、早過ぎる。あと三日だ。
私がそう思ったのを知っているかのように龍之介が言った。
「あと三日だろ」
うんと言うしかなく、けれど、頷く事が嫌で私は無言のままでいた。龍之介が何とか言え、と急かしてくる。それでも私は何も言えないままでいた。
「今日、暇?」
龍之介がそう続けた。私はそれにも何も答えられなかった。
「おーい、電話通じてるか。島は電波も微妙だからな」
「通じてる」
「ならばちゃんと返事しろ」
私は少し笑って、それからうんと言った。じゃあ、夜、マルの営業が終わってからそっちへ行く、と龍之介は言う。私はわかった、と頷き、電話を切った。
その日、私と美優はLINDAのママのサリさんに夕食に招待されていた。またいつもの辛いやつかな。そう言いながら私達はサリさんの家に向かった。サリさんはその昔、韓国に仕事で来ていた旦那さんと知り合い、紆余曲折の末、この島で暮らす事になったそうだ。この島には飲み屋で働く女はほとんどが島外の女で、フィリピンや中国から来ている人々も多い。飲み屋で知り合った客と結婚して、そのままここに居つく女は結構いるものの、サリさんのような経歴の持ち主はなかなかいなかった。
ただでさえ見知らぬ国へ行くというのに、更に離島に住むなんて想像しただけでも大変そうだ。けれど、サリさんはなんだかんだと言いながらも島の暮らしを楽しんでいるように見えた。この島では、子供を抱えて、家族を抱えて飲み屋勤めをしている女が多いが、その人々は例外なく明るかった。
旦那に逃げられようとも、旦那の稼ぎが悪くても、女達はいつも、よく食べよく飲んで笑っている。東京でこの状況だったら、きっと女達もそんな風にはいられないのだろう。サリさんから島の黒糖焼酎を勧められ、飲みながら、それは何故だろうと私は考えた。
「サリさん、こっち来る時、怖くありませんでしたか?」
私はサリさんが出してくれる肉とじゃがいもの辛い煮込みを食べながらそう聞いた。
「怖いって?」
せわしなくあちこちを動き回り、やれつまみだ、やれ飲み物だとテーブルに乗り切らないくらいに食べ物を出してくるサリさんが、質問の意味がわからない、というように首を傾げた。
「だって、知らない国で、しかもこんな狭い島で、今よりも昔の時代に旦那さんだけ頼ってここに来るなんて勇気がいるでしょ? 私だったら怖いもの。サリさんはそういう不安はなかったのかな、って思って」
「なぁに? 奈都ちゃん、島の男で好きな男がいるの?」
サリさんはにまにまと笑いながらそう聞き返してきた。私はそれに曖昧に笑って黒糖焼酎を啜った。サリさんはまた台所まで歩いて、冷蔵庫から漬物を取り出しながら答えた。
「怖い事なんてなんもなかった。あの人がいたからね。今じゃ酒ばっか飲んでる亭主だけど、島でお前に苦しい思いは絶対させないって、結婚する時、言ってくれた。いろいろあったけどここはいい所よ。狭いし、服も買えないし、贅沢も出来んけど、食べ物とお酒と住む場所には困らないし、悪人もいない。それ以上何もいらんでしょう」
サリさんはそう言って小さく笑った。それ以上何もいらん。私はその言葉を胸の中で繰り返した。そうか、それ以上が欲しいと思うから、いつも満たされないのだ。けれど、東京はそれ以上という気持ちをいつも刺激する街だ。もっともっと、という気持ちを持たなければいけないような気分にさせる街だ。そうやって満たされないから、不安になる。それ以上が何なのかもわからないのに、何となくテレビや雑誌の中にある輝かしい何かさえあればいいように思って、それに振り回されてしまう。
サリさんの家の中を見回した。雑多に洗濯物や新聞や雑誌が散らばる海に近い古い一軒家。玄関には古ぼけたダルマが意味もなく置いてあり、テレビの上には五円玉で出来た鯛の形をした趣味の悪い置物がある。それでも、窓からは全面に海が開けていて、形を変えては光を反射し、煌いていた。ビニール張りの床が裸足の足にぺたぺたと張り付いた。いつまでも裸足でいられる島。この島はそんな場所だ。東京のように一時期の流行で次から次へと靴を履き替える必要などない。
「男だけじゃなく私達もいるんだから、心配せんでいいのよ」
何やら誤解したままのサリさんはそう言って私の肩をぽんと叩いた。
作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。