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ラグジュアリーツーリズムが田舎にとどめを刺す前に

近隣にグランピング施設の建設が相次いでいる。

ラグジュアリーなキャンプ体験とハイエンドなホスピタリティで、インバウンドや国内の高所得層に向けて、地方創生の切り札として期待が寄せられている。

地元の行政や事業家も目を付け、さらにその数が増えていきそうなのだが、こうした開発が地域にどのような影響を与えるか、疑念を抱いている。

上記は2年前の記事だが、このようなラグジュアリーツーリズムにおいて、地方にはまだソフトハードともにその受け入れ態勢が整っておらず、とくにラグジュアリーツーリズムの理解そのものが、持続可能なビジネスへの鍵となる、と述べられている。

本稿では、ラグジュアリーツーリズムが地方に与えるであろう負の影響と、自分たちの地域を守るための持続的なツーリズムに必要な視点について考察をする。

このnoteでは筆者が岐阜県恵那市に移住して12年の農村暮らしから見えた視点をお届けしてます(所要時間約5分)。


「アジア人」のやさしさ?

欧米人とこんな会話をしたことがある。

「アジアの人たちはとても親切で好きだ」と言うので
「それは嬉しいね」と返すと
「だってバリ行ったらさ、ビーチのベッドで寝そべると、大きな葉っぱで扇いでくれるんだよ」とのこと…

当然その行為は雇用された仕事であって、決して親切心の発露としてやっているわけではない。

産業を観光に頼るアジアの人々による欧米人に向けた、いかにも欧米人の描くエキゾチック感を演出するサービスが、「アジア人らしさ」として受け止められている、ということを表す印象的な会話であった。

欧米において表向きには人種差別の根絶を目指す潮流の中で、法的にも文化的にも意識が高まっていると思っていた。この彼のパーソナリティからも意図的な差別意識から発せられたものではないことはわかってはいるのだが、だからこそこれが欧米人のアジア人へ向ける視線か、とちょっとびっくりした覚えがある。

この事例だけで一般化するつもりはないが、ラグジュアリーツーリズムの問題点は、ことインバウンド向けにおいては、現地民自らがステレオタイプの現地民像を演出しているサービスを、観光客はサービスとして受け止められず、それが素の姿なのだと、人間性に結び付けられてしまう可能性があることだ。

日本人が取り違えた「おもてなし」

数年前から、日本の美徳としてキャッチコピーとなった「おもてなし」は、本来裏表のない心で相手に対する敬意を表して客人を大事にすることであり、決して客人にへりくだることが美とされているわけではないと思うのだが、日本人自身が過剰な「至れり尽くせり」と取り違えてキャンペーン化したために、海外からの観光客に日本人に対するある種の好意的なステレオタイプを期待されてしまう。

マニュアル通りのへりくだった声掛け、クレームにならないよう過度な配慮(困った様子もないのに手助けする)など、本心からでない「おもてなし」でも、そんな事情を知らない人たちは、日本人としての気風と受け止めてしまうだろう。

言いかえれば、未だ階級意識の強い欧米の人々には、日本人が「おもてなし」の範囲と思っていることでも、彼らにとってはバリでうちわを扇がれていることと同質に捉え、日本人自らが進んで召使いになることを望んでいるとさえ映る可能性がある。

金銭を介しての関係であっても、人と人との関係であり、自然体で接することの方が、よっぽど本当の「おもてなし」に近づくと思うのだが、いかがだろう。

日本人が海外観光客に親切や気遣いを持って接していることは素晴らしいことだが、自分が海外旅行に行けば、欧米であろうがどこだろうが、そのような親切な対応を受けることなど特段珍しいことではないことも付け加えておく(逆もまた然り)。

(これらのことは国内においても象徴的に、都会と田舎、という構造の中で観察されるのだが、ひとまずここではインバウンドに焦点を絞る。)

飽きられれば捨てられる消耗ツーリズム

もう一つ問題になるのは、結局のところラグジュアリーツーリズムの担い手はほとんどの場合地域外の資本によるものであって、地域住民自らが主体的に担うケースは少ない。地域にとっては若干の雇用機会が増えるかもしれないが、それだけのことだ。訪れた人は地域の人や文化、暮らしの場としての自然とのかかわりが何もないままにそこを立ち去る。
儲からなくなれば手をひくようなことに、地域再生の切り札としてフルベットすることはとてもリスクがあるように思う。

一時期地方にやたらとテーマパークが乱立したが、今はその残骸が放置してあるか、ゴーストタウン化したテーマパークが時々面白おかしくメディアに取り上げられるだけのことだ。

あるいは、近年問題になっている山地へのメガソーラーパネル設置とも似た構造で、エコを笠に着て設置工事で儲けるだけ儲けて、あとは知ったこっちゃない、そして地域には有害パネルの放置と土砂災害のリスクばかり残されていく。

ラグジュアリーツーリズムの名のもとに乱立するグランピング施設も、そう遠くない将来にその残骸を見ることができるだろう。そうしたら地域にはほかに何が残るのだろう。外国人、という存在に対する、あいつらと関わったって良い事などない、という対立感情ではなかろうか。

日本の心を世界に拡げるツーリズム

今、この恵那市で立ち上がろうとしているのは、地域の本当に暮らしやリアルな人との交流によって、日本人が大切にしているものを伝え、訪れた人が日本人のあり方を学んで自分たちを見つめなおすような、サスティナブルツーリズムである。

その背景には、世界で日本文化がトレンドになっているということもあるが、より本質的には、多くの世界の人たちが日本的な価値観を共有することが、持続可能な世界を作る鍵となると考えている。

それは何かといえば、とってつけた「おもてなし」では伝わらなかった日本人の持つ本当の感受性、つまりチームワークを得意とする協調意識や、自然や生き物を人と同じ魂を持つ存在と考えるアミニズム、他の文化の吸収力、豊かな四季を通じた自然に対する解像度の高さ、良い意味でのあいまいさなど、である。

今の世界では物事を二分して違いを強調する「合理的」な西洋思想を所与のものとして捉えられがちだが、日本人として醸成してきた「非合理」を受容できる感性が、ここに融合していく意義は大きいと思われる。

もちろんそれらの感受性というものは日本においても非常に薄れつつあり危機感もあるのだが、その点田舎にはまだまだ暮らしに溶け込んでいると感じている。

先日妻が企画した地域住民が主体で立ち上げたエコツアーのモニターツアーにおいては、海外からの参加者に田舎の本当の暮らしを体験してもらった。

そこでは、地元の小さな神社を守る神官さんから直接話を聞いたり、棚田をめぐりながら地元の人たちが石積みの歴史を語ったり、実際に暮している古民家で生活感を味わったり、参加された海外の方からもこれまでにない印象的な体験で、日本の文化に対する理解を一層深めることができたと評価をいただいた。

迎え入れる地域の側も、自分たちが主体となって異文化の人たちと対話することで、自分たち自身が抱いていた「外国人」へのステレオタイプが取り除かれた、という声が聞けた。

少なくとも田舎に住んでいると、ツーリズムがそのような双方の変容の場でなければ、多くの異文化の人々を招きいれる意味がない、と感じている。
訪問者に「ここに自分が来た意味とは」を問いかけるようなツーリズムはいたって現代的だと思うのだ。

地域の誇りのためのビジネス

このような取り組みはグランピングのようなラグジュアリーツーリズムではできないことだ。

決して高価格であることを否定するつもりはない。しかしそこで問われるのは、価値あるものに正当な価値を付与しているか。
今までは自分たちの価値を低く見積もって、どうせ自分たちは大したことない地域だからと、結局サービスもそのようなレベルで留まってしまっていた。

しかし、自分たちの郷土の食や文化、風景などに誇りをもって真のおもてなしで来客に相対することには、相応の対価を付与するべきだ。
その対価は、食や文化の担い手に確実に行き渡り、「自分たちのために」「継続して」それらを守っていくことのために使われていく、それがビジネスである。

一方で「対価」の落とし穴として、価値のないもの、根拠のないものに、破格の利益を載せることが付加価値だと勘違いしてしまうことがある。
そのような張りぼてのおもてなしはすぐに見抜かれるし、地域の価値を損ねてしまう。

インバウンドに対してどのようなコンテンツを用意するのか、それは自分たち自身のあり方を見つめなおすことであり、地域の人たちが手をとりあうことに他ならない。

文化観光の名のもとに、地域で守られてきた風習や文化が、人を寄せるために手を加えられ、その本質的な地域の人々をつなぎあわせることと無関係になったとき、結果として地域のコミュニティの基盤が危うくなる可能性は十分に考慮されなければならない。

(↑以前にも引用したこれみたいな)

先の記事にも、インバウンドも富や名声の象徴としてラグジュアリーを求めていたところから、一つ先へと意識が高まり、Modern Luxury層による、真の日本理解や関わりを求めるニーズについて述べられており、決して精神論ではなく、ビジネスとして市場があることも確かだ。
地域と世界のつながりを質的に深め、双方の相互理解につながることが、大仰な言い方になるが、世界の平和構築と持続可能な人々の営みへとつながっていくことだろう。



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