見出し画像

山奥の田植え体験会で子どもたちが見せてくれたもの ~いびつなものと四角いもの~

田舎の5月6月は田植えシーズン真っ盛りである。
この時期は全国各所で「田植え体験」なるものが市街地に住む人向けに開催されているのを目にする。

今回ここ恵那市笠置町でも、都会に住む子どもたちを招待し、田植えを体験してもらう企画が自分の妻を中心に開催された。

オレはお手伝いをしに行っただけだが、ここで目にした子どもたちの姿に感じるものがあったので、書き記しておきたい。

このnoteでは都会暮らしの筆者が岐阜県恵那市に移住して10年の農村暮らし経験に加えて、30年以上のドラマーとしての音楽経験(仕事レベルで)や登山経験(登山店勤務経験あり)、アフリカでのワークキャンプ、地域おこし協力隊、有機農業、現在は夫婦でEC運営、といろんな畑を歩んできた自分の経験からお伝えできるトピックを発信しています。元岐阜県移住定住サポーター(現在制度は解消)。(所要時間5分。)

田んぼに入る

この体験会には普段市街地に暮らす10名弱の小学生を中心とした子どもたちとその親御さんたちが参加してくれた。

場所は恵那市の笠置山中腹、人里離れた場所の小さな田んぼ。いわゆる圃場整備できれいに区画されていない、昔ながらの湾曲した形の田んぼである。

今では田植え機でちゃっちゃと植えてしまうのが当たり前だが、田植え機が普及する前のつい数十年前までは集落総出で手で植えていたという。ちょっとでも体験したことのある人ならわかると思うが、途方もないことを先人たちはやっていたのだ。

水の張った田んぼに裸足になった足を恐る恐る踏み入れると、ヌルっとした泥の感触とともに足が埋まっていく感覚になる。天気も良かったので水も温かい。
ほとんど次の瞬間と言っていいほどすぐに泥遊びが始まる。普段こんな環境が周りになく、自然に触れ合う機会の少ない子たちばかりだというのにだ。

苗を植えるのもそこそこに、ノンストップで彼らの泥遊びは続く。泥で山を作ったり、泥を投げ合ったり、しまいには水に全身浸かって嬉々としている。
この田んぼを提供してくださったFさんがこうなることを見越して、泥遊びスペースを確保しといてくださったのは、正解としか言いようがない。

そんな子供たちを横目に、親御さんたちはひたすらに苗を植え続ける。親御さんたちもまたほとんど経験がないと言っていたが、夢中になっている様子は自分からも見てとれた。

およそ5畝ぐらいの小ぶりな田んぼをだんだんとみんな手つきも慣れながら数時間、最後は何とかみんなで植え切った。

会の終わりに感想を交わした中で、親御さん自身が人生観変わるぐらいの体験だったと言う方もいた。

オレも久しぶりの手植えをして腰にきたが、みんなで一緒にやっているという気持ちの高ぶりからか疲れよりも爽快感でみたされた。

以前にも自分の畑で農作業体験会を開いたときのことを記事にした。このときは、身体が喜んでいる感覚は土とのふれあいから起こるものだと感じていたが、今回感じたのは、この田んぼのあるロケーションが人の意識に働きかけた空間性の作用である。

四角い街といびつな田んぼ

この体験を通して、いわゆる都会の子どもや大人が過ごしている空間と、田舎の空間の違いを考えざるをえない。

今回体験の場となった田んぼは、くし形を半分にしたような、機械が入って作業するには効率的といえない形状をしている。山の起伏に合わせてそうせざるを得なかった、という形だ。

平野部のことはわからないが、こうした山村の農地は当然先人たちによって開墾され、本来斜面だった場所に水が均等に張れるように水平をとるために地形の”加工”を施してきた。大きな重機もない時代ゆえ、大まかにはもとある地形に合わせていかざるをえなかっただろう。

昔ながらの棚田などに今も見られるが、従来田んぼというのは規則性もなく、地形に合わせて湾曲しているものだった。

近所にある坂折棚田。棚田100選に選ばれている。

そして今回の場所は、ポツンと一軒家に出てきそうなほど山の奥に入った場所にあり、周りは森に囲まれ、風景に規則性もない。

田んぼを囲む石垣も昔ながらに手で積まれたもの。コンクリのブロック壁のようにぴったりと同じ大きさで並んでいるわけではない。どうやってこれでバランスを保っているのか不思議に思うような積まれ方なのに、長い年月崩れることはない。

街での直線的に区画され直線的な建築物を見慣れている目には、この混沌ともいえる風景はどのように見えるのだろうか。

田舎には四角くないもの、曲がってたり、ギザギザだったり、揃っていなかったり、同じもののないいろんな形があることに子どもたちが夢中になれる要素があるのかもしれない。

子どもたちが一瞬で解き放たれたかのように遊びに繰り出すその姿からは、自然の不規則な空間に、何か制約のない自由なものを感じていたのかもしれないと思えた。

本当にいろんな個性の子が思い思いに過ごしていて、泥遊びに興じる子たちの他にも、大人に混じって集中して苗を植え続けた子や、泥に入るのは最後まで抵抗感があったけど田んぼの畔から一生懸命植えてくれた子、お気に入りの場所を見つけて夢想にふけっている子など、いろんな姿を見せてくれた。

今回参加してくれた子たちは、前にも一緒になったことがあるけれど、憚らずに言えばそれぞれに個性が強い子たちだった。
前回は町の中の博物館を一緒に見て回ったのだが、なかなかに個性の違いが際立ち、見守りながらもハラハラする場面もあった。それが今回、そんな個性をも軽く包んでしまうようなこの環境のおかげか、子どもたち同士が違いを超えて、打ち解け合っていた。

この空間は合理か非合理かでいえば、非合理。自然の不規則性は人間の目には扱いにくいもの、混沌にさえ映る、わけのわからなさ

でも本来人間そのものだって非合理の塊のようなもの。感受性の豊かな子どもたちが自然の中に放り出されたら、すぐにそっち側のチャンネルに感覚があったというだけのことだと思える。

そうか、子どもは自然に近い存在、そもそも非合理で不規則な存在ではなかったか。合理的に作られた四角い教室で一緒に座っていることがとてもつらい、というのはごく自然、なのだろう。

四角い圃場の田植え体験

以前も何度か田植え体験に関わったことがあるが、多くは圃場整備された大きな田んぼが会場となっていた。
圃場整備とは、前述のようにそれまで地形に合わせて曲がりくねっていた田んぼの形状を機械での作業がしやすいように、小さな田んぼを統合し直線的に区画し直した事業であるが、意外にも我が家の田んぼが整備されたのは90年代。結構最近の話である。

整備された田んぼはみな同じような四角で変化のない景色。
機械での作業を前提としているので1枚が広く、およそ手植えでは人手があったところで一日では終わらない。
このような圃場で行われる体験会では、大きな圃場の片隅をちょっとだけ手で植えたら、あとは田植え機がものすごいスピードで植えていくのを目の当たりにする。
何か、自然に触れる、という感覚とは違う、自分たちは到底機械にはかなわないということを見せつけられた覚えがある(同じようなことは整備された観光農園にも感じる)。

田んぼ、というものが自然そのものということでないことはわかっている。ただ今回の湾曲した田んぼは、人の手で地形に沿い作られた、自然の一部として機能していることが感じられるものだった。

大きく圃場整備された田んぼのおかげで、農村の農家の負担は格段に減った。だが圃場整備にはさまざまな問題も指摘されていて、一概にメリットデメリットを論じることはここでは難しい。

小さな曲がりくねった田んぼに抱く感情は、幾分ノスタルジックなものではある。だが生産という視点だけでない田んぼも同時に存在することは、我々にとって自分たちの存在が何なのかを都度思い出させてくれる大事な場所になっていくはずだ。

四角さもいびつさも共に

月並みな比較ではあるが、都会は直線的で四角い空間に占められている。整然としていて管理しやすい。不規則性に対応するのが苦手な人にとって、大変ありがたく、役に立つ。まさにオレがそうだ。

オレは恵那に移住するまで30年以上を市街地で暮らしてきた。山を削って正方形に区画された新興住宅地がふるさとだ。
だからかわからないけど、すっきりとした直線の空間に、ある種の美しさを感じたりもする。それもまた人間としての性質の一つなのかもしれない。

ここで四角いものといびつなものの優劣をつけたいわけでない。
オレはこれから成長していく子供たちが、どちらもこの世界にあるものとして認め受け入れ、それぞれの良さを採り入れながら新しい社会を作ってもらえたら、と願っている。

現代の都市空間デザインの理論では、人間らしいコミュニティ形成のための装置としていかに非効率であいまいな空間を残していくかがポイントとなることはもはや常識のようである。

が、事例をあまり探してないので適当なことは言えないが、あまり人為的に誘導的にこしらえられた非効率空間が思った通りに機能することは考えづらい。

この田んぼも意図してこの形に造られたわけでなく、地形に沿ってたまたまこういう形になったのである。都会でも面白いものは得てして何も意図のない空間の余白に生まれたりするものだ。

そして一見自由に見える不規則な田舎には、実はたくさんの制約も存在することを忘れてはならない。
不規則がゆえに自然から自分たちを守るための習慣が大事にされる場所でもある。
それは田んぼでいえば水管理や共有地での共同作業から始まり、それらが行動規範としてしきたりからしがらみ的なものとなり受け継がれていて、それらを無視しては暮らすことのできない厳しさもある。

それらは暮らす者としての話であり、ここではいったん置いておこう。養老孟司さんが提唱する「現代の参勤交代」のように、まずはどちらも知る、ということが大事なのだから。
その意味で不規則なものに囲まれた環境に都会の子たちを招いて、彼らがいきいきして活動するのを見るたびに、やっぱり彼らには必要な体験なんだなというのを確信している。

新しい時代のハイブリッドな感性のために、今後も場を開いていきたいと思う。どちらも同じ世界にあると知ることは、融和への道でもあるから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?