アーネスト・ヘミングウェイ 『全短編Ⅰ』

★★★☆☆

 言わずとしれた大作家ヘミングウェイの短篇集です。1996年に新潮社から出版されたもので、ハードカバーだとⅡまであり、文庫版では3冊になっているようです(さらに、収録順も微妙に違うようです)。
 ヘミングウェイの死後、遺族によって編纂された完全版だそうで、ヘミングウェイが滞在したキューバの地にちなんで"フィンカ・ビヒア版"と呼ばれています。
 翻訳者は高見浩。いろいろ訳されていますが、僕はタチアナ・ド・ロネの『サラの鍵』(とてもよい小説でした)を読みました。

 最後にヘミングウェイを読んだのは、おそらく十年以上前になります。『老人と海』とかそのへんのものを読んだ気がしますけど、内容はほとんど憶えていません。マッチョというかハードというか、質実剛健(simple and sturdy)な印象だけが残っています。読破する方向にいかなかったところをみると、僕の趣味には合わなかったようです。
 今回、気持ちも新たに読んでみても、その印象が大きく変わることはありませんでした。記憶のままというか、遠い昔に食べたものを口にして、「そうそう、こんな味だったな」と頷くような心持ちでした。

 ヘミングウェイの作品はモチーフとなるものに特徴がありますよね。従軍、闘牛、釣り、狩り、拳闘……実にわかりやすいです。日本人だと開高健とか北方謙三になるのでしょうか。両者とも未読なので僕にはわかりませんが、なんとなくマッチョな印象があります。男たるものかくあるべし。うじうじ悩むくらいならソープに行け、みたいな。
 とはいえ、実際に読んでみると、内容は印象ほどマッチョではないです。モチーフ自体は男性性が強いけれど、底流しているのはペーソスです。多くを説明しないからこそ醸し出されるもの哀しさによって、非常に味わい深い文学作品に仕上がっています。

 ところで、特に僕が惹かれたのはタイトルです。シンプルで平易な言葉の組み合わせなのに、印象的かつクールなタイトルが付けられているのには驚かされました。
 『勝者に報酬はない』("Winner Take Nothing")とか『世界の首都』("The Capital of the World")、『敗れざる者』("The Undefeated")、『身を横たえて』("Now I Lay Me")など、原題も訳もばっちり決まっています。かっこいい。

 そして、なによりも文体です。

 クリスプで、徹底的に切り詰められており、思弁的な要素がほとんどありません。ジャーナリスティックな文体という評価を目にしたことがありますが、正にそのとおりです。価値中立的な視座の下、物語は立ち止まることなく、歯切れよく進んでいきます。意味? そんなのは読み手の問題だと言わんばかりです。あるのは行為と行動のみ。ううむ、マチスモ。

 収録されている中では、『キリマンジェロの雪』や『身を横たえて』にはいくらか思索の要素が入っています。どちらも横になって考えを巡らす話なので、そうなるべくしてそうなっているのでしょう。僕はこういう方が好きです。乾いた文体が思惟性に引っぱられすぎることなく、絶妙なバランスを保っています。

 もうひとつ印象的なところを挙げると、食事シーンです。

 ヘミングウェイって食べるシーンを描くのがとても上手です。サンドウィッチとかコーヒーとかビールとかが実に美味しそうなんです。ベーコンエッグのサンドウィッチというなんでもないものが妙に食欲をそそります。
 食欲に訴えかける文章表現というのは、描写力や擬音の力に拠るところが大きいと思ってたのですが、ひょっとすると、シチュエーションの設定の方が大切なのかもしれません。
 たとえば、カリッと焼きあげられた表面に齧りつくと、中からジュワッとした肉汁が溢れてきて——などと書かれても(何を食べてるのでしょうか?)、特に何も感じないですよね。映像などの視覚情報だと、一目で刺激されますが、文章ではそうはいきません。読み手の脳内にイメージが広がらないと食欲には結びつかないです。美味しいそうな描写、というのは、読んでるうちによだれが出てくる描写でないといけません。
 おもしろいことに、ヘミングウェイの食事シーンにはこれといって味の描写はないんです。フライパンの上でソースが温められていく過程や、肉が焼けていく様子は描写されるし、料理をどのように食べるかは描かれるのですが、味に関してはさらっと流すんです。それなのにお腹が鳴っちゃうんです。
 おそらく、食事をしている状況そのものが食べ物をより美味しそうに見せているんです。それは野球場で飲むビールが美味しかったり、山頂で食べるカップヌードルが絶品なのと同じことです。そこでそれを食べたら旨いに決まってるじゃないか、という具合に。ヘミングウェイが意図していたのかわかりませんが、飲食物のある状況設定が実に実に巧みです。思わずワインが飲みたくなったり、サンドウィッチが食べたくなります。正に文章の力ですね。

 しかしながら全体としてみると、良作があるものの、あまり好みではありませんでした。
 なんというか、物語が中立的に提示されて終わってしまう話が多い気がするんです。それこそがヘミングウェイの持ち味なのかもしれませんが、思わず「だから何?」という感想を抱いてしまいました。良いものは滅法よいのですが、いまひとつのものは退屈に感じましたね。名作・良作が半分といった感じでしょうか。

 文体や表現、つまり文章そのものの柄の大きさには唸らされますが、物語としては面白みに欠けるような気がします。べつに釣りとか闘牛に興味がないので、鱒を釣り上げるシーンとかに惹かれないんですよね。「釣れるかな? ああ、釣れたね……それで?」となってしまうんです。『月刊つり人』かよ、と。その意味ではレポートを読んでるような気になることもしばしばでした。

 とはいえ、全集としてこれだけたくさんの作品が収録されていると、質にばらつきがあるのは仕方がないかもしれません。

 それにしても、よいものといまひとつのものの間にかなりの差があるように感じました。『全短編Ⅱ』を手に取るのかは、まだ決めかねております。またもう少し時間を置いてから読んでもいいかもしれません。

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