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余白があれば、変わっていける。


SUGOIで今年から本腰を入れていきたい「a yohak」というブランドについて、考えていることを話してみたいなと思っています。

「a yohak」、つまり「余白」という意味を名前に込めました。

この「a yohak」において、何をするのか。
今の考えとしては、和紅茶をメイン商品としながら、カフェをオープンさせたり、そのスペースを「愛とアイデアの体験価値を共有できる場」に育てていきたいな、などと思ってるんですが。
そんなこちら側の話は置いておくとして。

「余白」なんていう、ややこしく、パッと意味の取れない言葉をなぜブランド名に据えてみたのか、ということについて、今回は話してみたいです。

●「コンセプト=答え」でなく、「問い」であるブランドを作りたい

この「余白」というブランド名は、狙ってややこしくした訳ではありません。むしろ何のひねりもなくコンセプトそのものを表現したら、この名前になったんです。

ブランド名って、わかりやすい方が伝わりやすいので、その逆を行ってしまってる意識はあります。けれど、どうしてもそうしたくなった理由があるのです。

自分自身をユーザー側に置き換えて考えるのですが、やはり楽しみ方やソリューションが「答え」として決まっている、出来上がったものとして受け取るような商品に、どこか物足りなさを感じたりするのですよね。

それよりも、商品によって自分がインスピレーションを受け、思考をめぐらせて、こうやって使いたい、と自発的に思えた物やサービスの方が、深く愛せたりする。

そう思うと、ブランドが自身のコンセプトを「答え」と捉えているか、それとも「問い」と捉えているかによって、ユーザーの受け取る価値は変わってくるのではないか。

そこで、SUGOIは自分たちでブランドを作るにあたり、コンセプト自体を「問い」とすることに決めました。

従来のブランドは、そのコンセプトという「答え」を当てさせる謎かけのような形でブランド名を付ける、という定型があると思うのですが、SUGOIのブランドは「問い」そのものがブランドなので、これを直接的にブランド名に据えた、という訳なのです。

では、その「余白」というものはどういう問いかけなのか。
それについて私の思うところを書いていきますね。

●人それぞれ、捉え方の違う「余白」というもの

さて、皆さんは「余白が欲しいですか?」と質問されたら、何と答えるでしょうか?

「もちろん欲しい」という声が聞こえてきそうですね。
実際にTwitterで検索してみると、「今日も一日、心に余白を持とう」などと言ったように、この言葉は日常的にみんな使っているように感じます。

ではこの「余白」というものの解像度をもっと高めて、どんなイメージで捉えているのかを考えてみると、案外人それぞれ、異なったイメージが出てきたりするものです。
言葉が抽象的だからでしょうね。

おそらく、「ゆとり」とか「余裕」などのイメージと結びつきがちだなと思うのですが、皆さんはいかがでしょうか。
SUGOIの中でも、この話をした時にメンバーが捉えていたのは、上の2つに加えて「暇」とか「無駄」「何もしない時間」などのイメージでした。

これを聞いて実は、自分の中で捉えていた「余白」とちょっとズレているな、ちゃんと伝えないとえらいことになるぞ、という気持ちになったのを覚えています。
「余白」は、イメージの共有が結構難しいんですよね。

●箱にきっちり詰め込まないイメージ

自分が捉える「余白」というものをイメージすると、一つの箱が浮かびます。

想像してみてください。人はそれぞれ箱を持っているとして、その箱の中に沢山の中身を詰め込もうとしています。
皆さんは、中身をぎっしり詰めますか?
それともスカスカにしておきますか?

どんな按配がちょうどいいのでしょうか。

中身が無いことに不安を感じ、きっちり詰め込みたいと思うのは当然なこと。沢山詰まっていると、満たされますよね。
けれど、隙間なく中身を詰め込み過ぎると、逆に窮屈にも感じてきます。

「満たされない」という不安よりも安心を優先させたいので、多くの人は隙間なく中身を何かで埋め尽くそうとします。
これをしてしまいそうな時に、ちょっと待て、と思うのが、「余白」に思いを馳せることだと思うんです。

余白は、変化できる可能性

では、いっぱいに詰まっている状態って良くないのでしょうか?

私は、きっちり詰めて「安定」している状態というのは、逆に「固定」であり「変化しづらい」状態ではないか、と常々考えています。
この「変化」というものが、人をクリエイティブに保つためにはとても大事なことなんです。

日本語には、余白を示す言葉に「遊び」というものがあります。
例えば、扉の蝶番などがちゃんと動き壊れにくい状態にするように、ちょっとした「遊び」を作る、というやつですね。
この遊び、つまり余白を、心の箱の中にもちょっとだけ作っておくというイメージでしょうか。

埋め尽くしていないことは不安かもしれないけれど、それは逆にきっちり詰め込んでいる状態よりも、変化しやすい状態でもある。

学生の頃に、母親がお弁当箱にいつもきっちりと詰め込んでいた白ご飯の分量を、間違えて少なめにしてしまったことがありました。
通学の自転車でガタガタ揺られて、昼食の時間に開けてみたらおにぎりになっていた、なんてことがありました。

これ、白ご飯の変化とも言えますね。おにぎりに変われる可能性を、余白によって手に入れた、とも言えると思います。

私たちは、余白があれば人は変化する事が出来ると思っています。
隙間があれば、中身は少しづつ変わっていく。
この可能性を持っていることを、私たちは「a yohak」で商品を通じて発信していきたいな、と思ったんです。

余白を持ち、変化し続けるというのは簡単ではないのかもしれないけれど、私たちはクリエイティブの会社として、それをとても重要なことだと思っています。

と、ここまで書きましたが、この説明すら「答え」のようになってしまっているのが、人間の業というものですね…。
「答え」らしさを装いたい、というのは、人が活動していく上での本能だと思います。
私自身も、「問い」をブランドにしていくというこの試みを体験しながら、成長していきたいところです。



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