【エッセイ】難しい話は任せた

出来の悪い子でも(或いは悪い子ほど)我が子が一番かわいいのはこの世の理。
そして昔から創作した作品を我が子に準え例えに使う。(私も多用している表現)
これらを踏まえるとみんな自分の作品が一番かわいいということになるはず。(私はどんなに拙くて不出来でも自分の詩や書籍がやっぱり愛しい)
なぜこんなことを思ったのかというと、批評のやり取りをSNSで目にしたから(してきたから)だ。

作品の好き嫌いは誰にでもあるが、その好き嫌いが作者の人物自体で左右される場合は質が悪い。というよりそれはもはや作品への批評とみなせない。邪念雑念その他諸々要らない感情入りまくりである。
作品を純粋に批評していると仮定して、それを前提に批評文を読んでみるが、なんか難しくて、何がわからないのかがわからないという最悪の事態に陥っている。それはただ私が勉強不足の無教養なだけなのだが、それにしてもさすが専門家の批評だなと思う。(なんとなく)

よく例えに出される
「一流の映画評論家が一流の映画を作れるとは限らない」のと同じように、批評のプロは批評のプロであって対象の作品を作るとなったら他の批評のプロからこれまた同じくなんか難しい批評を受けるのだろう。

作家が作家に(もちろん作品に対して)批評しているのもまあまあ目にする。その批評に対しての返しでちょっとひりつくことがある(こちらが勝手にヒヤヒヤしているだけだろうが)。
一種の作家同士の切磋琢磨なのか。だけど何か忘れちゃいないかと冷めることがある。

一般の読者、創作物の受け手のことだ。

良い所探すのに困ったと批評されていたものが世間は受け入れ大ヒットしていた。(これは批評か批判かはまた別の問題として)
プロの目と一般の目のズレをまざまざと見せつけられた気がした。

私は作品をあんなに難しく分析することは出来ないから批評している人の思考を凄いなぁとしか思わない。そんなことより作品が面白いか面白くないかを感じることに意識が向いている。
で、どこがどう気に入ったのかを浅〜く考えてみる。感想レベル。そのくらい。

足をひっぱってやろうとかやっかみでわざと酷評してるに違いないと詮索してしまうのは私が下世話だからだろう。
そう、私は下世話なのだ。(2度言う。得意げに言う)

兎にも角にも批評出来る人って凄い能力だと思う。才能というより能力。頭いいんだろうな(そりゃそうだろ)
線引きも出来て作家と批評の使い分けが出来ないと務まらない。
個人の感情(私情)を少しでも挟んだらそれは作品への批評でなくなるから。
いくら我が子のようにかわいい自分の作品を手厳しく批評された相手の作品を批評しなくてはいけなかったとしても。

結局自分が書きたいことを書くのが健康的である。他人の意見を聞かないとかではなく。思うがままに書くという意味で。
水木しげる御大も妖怪やその類の話なら筆は進むけど興味のないことはちっとも進まない(なんなら止めて描かない)と何かの本で読んだかテレビで観たことがある。(どっちだ)

徹夜の美徳ももう昔。
水木しげる御大は寝ることの重要さを知っていた。寝んといかんですよと。
御大はよく寝て食べたいものを食べて興味のあることを夢中になって描いた。

他人と比べない。余計な競争はしない。
争っても腹がへるだけですよという御大のありがたい教えを胸に。
私だけじゃなく創作者は皆自分の作品を一番かわいいと思っているんだと理解する。
不思議と肩の力が抜けていく。
この考え方は自分の為になる。
そしてそれが誰かの為になれば御の字だ。


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