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【エッセイ】ハードルの高さ

夏休みの宿題で一日何ページドリルを進めるか。
最低10ページの人もいれば5ページの人、1ページの人もいる。
このページ数が人それぞれのハードルの基準と仮定する。
努力のハードルの基準は人それぞれ違う。
私は小さな努力をこつこつと積み重ねてきたつもりであったが、もしかしたらそれは小さくなかったのかもしれない。
大きかったと言いたいわけではない。
まったく反対でむしろ無意味に近い。
というのも「身の程知らず」をわきまえていないのではないか…が、やっと(それを肯定するわけでもないが)謙遜抜きで愚かなまでに「身の程知らず」だったことに気がついてしまったからかもしれない。
夢物語を都合よく考える。結果的には悪い癖を慢性的に積み重ねてきたところでただ身にならない、実らない無駄な努力をしたつもりになっていたのではないか。
認めたくないがいい加減認めなければいけない時がきてることがわかってきた。つまりは身の程知らずだということを少なからず気がついていたのかもしれない。

これくらいの目標を掲げてもいいだろう。
そして掲げる目標(ハードル)はありえない手の届かない理想なのだ。
それが甘い。それが身の程知らずということだ。


少しわかりやすく伝わればとイラストを描いてみました。

私には跳躍可能なハードルの「基準」なのだがそれを横で笑う者がいる。
なぜ笑われているのかわからず「?」となっている。

世間一般的には私のハードルは雲を突き抜けて到底跳躍不可能だったのだ。
私の見えているハードルの高さが文字通り節穴でちゃんと見えていなかったということ。
見えてるものだから仕方ない。
世間一般的のその雲の上の高さに見えるまで(気づくまで)どうしようもない。

なにか自分を鼓舞する時に都合よく思い出していたエピソードに、志村けんはいかりや長介のアパートにおしかけ座り込み土下座の直談判をして根負けしたいかりや長介が付き人として志村けんを雇ったということだった。
他にもそんな伝説的なエピソードを引っ張り出してきては決して無理なんかじゃないと言い聞かせていた。
そんな天才たちと肩を並べてどうする?
そんなことにも目をそむけてまやかしのハードルを見ていた。そういうことだったのだ。

私が描く成功までの困難は達成可能だとハードルの高さを設定する。
それがあまりにも身の程知らずだったことにようやく最近本当に理解できてきたように思う。
するととたんに虚しくなってしまった。
切り替えてまた新たな目で努力が実る高さのハードルに挑戦すればいいのだろうが、正直ポカンとしている。
今までの身の程知らずのハードルはやはり大きなロスだったことに途方に暮れる。

趣味で楽しく、本当に楽しんで創作や表現をしている方に出会ったことが私の節穴の目を埋めてくれた。
充実している姿に今のあがいている自分が情けなく哀れに思えた。
私は何のために必死になっているのだろう。

積み重ねてきたつもりの時間が長ければ長いほどその虚しさは抗うこともできないくらい凄まじく強大な波となって私をのみこむ。

あぁ、この線をこえれば「諦め」の先に踏み込んでしまうんだと気がついた。

今、その線をじっと見つめている。

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