あまり知られていない浅井三姉妹の末妹の現在まで続く子孫達
以前紹介した『実は織田信長と豊臣秀吉と徳川家康は親戚だったという話』の追加の話になるのだが、今回は浅井三姉妹の中で唯一現在まで血脈が続くお江の子孫達を紹介しようと思う。
1.豊臣完子
この娘は羽柴秀勝とお江の間に生まれた唯一の一人娘で、お江が徳川家に嫁ぐ時に伯母である茶々(淀殿)に引き取られる。
その後九條家に正室として嫁ぐのだが、これが九條家の直系に続く先祖にあたる九條道房を産むのだ。
そして完子の結婚相手である九條幸家は彼女が嫁いでから公家と武家を繫ぐ貴重な存在となる。
豊臣家滅亡した慶長20年(1615年)以後はなんと徳川秀忠の養女になる。
これで徳川家も公家と繋がりをもったという訳だ。(徳川秀忠の末娘の和子が天皇家に嫁げれたのも幸家の後ろ盾があればこそなのだ)
2.徳川珠姫
慶長4年(1599年)、徳川秀忠とお江の間に生まれた秀忠の次女である。
彼女はなんと慶長6年(1601年)つまり3歳で、加賀100万石の前田家の所へ正室として嫁ぎに行く。そしてこの娘、母親に負けず劣らずの子沢山で24年の生涯の中で三男五女を産む。
慶長18年(1613年)に長女を産むのを期に、元和元年(1615年)長男・光高(後、加賀三代藩主)、元和2年(1616年)次女、元和3年(1617年)次男・利次、元和4年(1618年)三男・利治、元和5年(1619年)に三女・満(後に浅野家へ嫁ぐ)、元和7年(1621年)四女、元和8年(1622年)五女と産み続ける。
政略結婚とはいえ利常とは非常に仲は良かったそうだ。(父親である徳川秀忠に参勤交代中の利常を早く加賀に帰してくれるようにといった手紙が残っているという)
そして長男光高の子孫が現在の前田家の当主まで続いている。
3.徳川勝姫
慶長6年(1601年)、徳川秀忠とお江の間に生まれた秀忠の三女。
彼女は越前国福井藩松平家に正室として嫁ぎに行く。(しかし松平春嶽は直系の子孫ではない)
子女は何人かいるが、次女の鶴姫が(豊臣完子の項を参照)九條道房の正室として嫁ぐのである。
この娘も祖母(お江)程ではないにしても二人の間に五女を産む。
4.徳川家光
慶長9年(1604年)、徳川秀忠とお江の間に生まれた待望の長男である。
読者の何人かは知っていると思うが、確かに家光の男系は途絶えている。(だから紀伊藩主の家系吉宗に移るのだが)
しかし女系では残っているのだ。
そして家光の長女千代姫は尾張藩主徳川光友の正室として嫁ぐ。
その子孫は男系としては切れてしまうが、女系としては色んな所に残っていく。(最終的に現尾張藩主はその血脈が入っている)
上記をまとめるとこうなる。
5.家系図(二部)
徳川・九條・天皇家系図
(注:松平忠直は結城秀康の子)
織田・徳川・九條・前田・浅野家系図
これで分かるのはお江の血脈は様々な家柄にかなり脈々と受け継がれていることだ。
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