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たとえ「普通の」生き方ができなかったとしても。

2020年6月末、ライターのキャリアに終止符を打った。
4年間、ライターとしてお世話になった会社を辞めた。


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幼い頃から小説を自作するのが趣味だった私にとって、「文章を書く仕事」……つまり「ライター」は、憧れの職業だった。

勤務先はパンフレット制作がメインの会社だったので、ライティングだけでなく、編集や進行管理にも携わらせてもらった。インタビューをしたり、撮影のディレクションをしたり、デザイナーさんが作ってくれたデザインのチェックをしたり、印刷会社さんとやりとりをしたり、仕事は多岐にわたった。自分の夢を叶えてあげられた充実感があって、たのしかった。

「中小企業」と称するのがおこがましいくらいの小さな小さな会社で、入社した時から業績は傾いていた。コロナ関係なく経営は悪化し、上司が会社を去り、私も自ら働く日数を5日から3日に減らした。noteを基盤に行っている創作活動にも力を入れたかったので、雇用形態を変えず正社員のままで週3日働けるのは、(この表現は適切ではないかもしれないけど)ラッキーだった。会社側も、私に払う給料が少なくなって好都合だっただろう。


ちょうど一年前、2020年になった頃。ライターの仕事を辞めたいと思うようになった。クライアントに指定されたものを書くことに、喜びを感じられなくなってしまったのが原因だった。ライターは好きなことを好き勝手に書いていい仕事ではない。クライアントの意向に沿うもの――商品やサービスを売るために購買層に刺さるような――を書かなければならないケースが多い。

たしかに文章を書くことが好きだったけど、私は、誰かに頼まれたものを書くのは好きではなかったらしい。自分の内側からわき出てくる表現を「文字」というカタチにするのが好きだったようだ。これに気がつけたのは、大きな収穫だった。

それに、ライターの仕事は、いつもプレッシャーと隣り合わせだ。私の書く文章がクライアントの希望に応えられているか、それで世間から反響を得られるのか。極小企業だし、私の行いで仕事を切られたらどうしようという不安もあった。合わせて、会社の人から「玄川さんがいないとやっていけない」と言われたのが、心底キツかった。「期待されているんだ」とうれしく思うのが普通かもしれないけど、倒産しかけている会社を背負って立てるほど、私のメンタルは優しくなかった。期待は依存によく似ている。


知っての通り、2020年は新型コロナウイルスが猛威を振るった。6月の末に会社を辞めたところで、次の仕事の当てはなかった。3ヶ月、まるまる無職だった。


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まだ社会がこんなふうになっていなかった頃、ぼんやりと「次の仕事は、正社員じゃなくて派遣社員で探そう」と考えていた。正社員だろうが派遣社員だろうがパートだろうがアルバイトだろうが、仕事への「責任」は変わらない。でも、私がいなくても円滑に仕事が回るような会社に勤めたいと思っていた。二度と「玄川さんがいないとやっていけない」という状況には陥りたくなかった。

いくつかの派遣会社に登録して仕事を紹介してもらったけれど、なかなか就業にはつながらなかった。派遣会社の人には、「コロナのせいで求職者が多いのに、求人数自体がとても少ないんです。申し訳ありません」と何度も謝られた。

希望していた事務の仕事は特に倍率が高かった。ライターになる前、2年ほど事務の仕事をしていたけど、ExcelもPowerPointもほとんど使えない。スキル面で他の人と比べられたら、真っ先に私が落とされるのだろう。

失業手当も10万円の給付金も、国民年金や国民健康保険に消えた。国からもらったお金を国に流している。コンビニで税金を払いながら、このお金の流れにどんな意味があるんだろうと思った。もともと週3でしか働いていなかったのだから、貯金もない。「貧困」の二文字が幾度も頭をよぎった。

会社を辞めないほうがよかったんだろうか。書きたくないものを書き続けたほうがよかったんだろうか。期待を重荷に感じる私が贅沢だったのだろうか。あのままメンタルがつぶれるまで働いたほうがよかったんだろうか――……。無職生活で昼夜逆転しまったせいか、眠れない夜が続き、何度もそんなことを考えながら泣いた。


就業先が決まったのは9月の末で、週5日の営業事務の仕事だった。組織変更による異動があり、すぐにでも後任の人を雇いたかったらしい。長期で働けて、自宅から通いやすい立地、残業なし、何よりお給料が良い。他の企業の面接の予定があったけど、派遣会社の担当さんに「今日中に返事がほしいんです!」とか「こんなに良い条件の会社はないですよ!」とかゴリ押しされて、「じゃあお願いします」と就業を決めた。頭の片隅に、とうとう一桁減ってしまった預金通帳が見え隠れしていた。


――だけど、10月1日付で入社したこの会社を、10月末日で退職した。
10月は、自分がどう生きていきたいのか、真剣に向き合わされた一ヶ月だった。


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週5で働き始めて、創作活動に割ける時間がガクッと減った。これまで週3で働いていたんだから、そう感じるのは当然といえば当然のことだろう。

金銭的な理由から週5日働くことに決めたけど、理由はそれだけではない。他の書き手が週5日働いてきちんと結果を出しているんだから、週3日しか働かないなんて甘えだと思っていた。他の人ができているんだから、私にだってできるはず!みんなと同じように!!


面接では「残業なし」「二人で15名ほどの営業をサポートする」と聞いていたけれど、実際には事務作業をするのは(ほぼ)私一人で、それにより1~2時間程度の残業が発生した。仕事に慣れれば残業は減るのだろうか?と思ったけれど、いくら仕事ができるようになったとしても一人で15名見るのはキャパオーバー。ついでに、一人で作業をしているせいもあり、「私が休んだら営業さんたちに迷惑がかかる!」というプレッシャーが私に襲いかかってきた。前職で経験した回避したい状況に、入社早々陥った。

「たかだか1時間の残業くらい」と思うかもしれないけど、自分の時間を確保するために1分1秒でも早く家に帰りたかった。片付けなければならない家事もあるし、帰宅してすぐに創作にとりかかれるわけではない。それ以前に、朝9時から懸命に働いて、家に帰ってから何かをする体力が、私には残っていなかった。夜22時頃にはもう倒れそうになるくらい眠かったし(仕事中も気が狂いそうなくらい眠かったけど)、休みの日も泥のように眠り、目が覚めたら正午を過ぎていた。


――……私には、他の書き手と同じように、週5日働いて上手く時間を使いながら文章を書くということが、どうにもこうにもできなかった。向いていなかった。

10月は、ひとつも作品を完成させられなかった。


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私だって馬鹿じゃないので、働く日数を週3から週5に増やせば、創作に割ける時間が減るだろうことはそれなりに理解していた。でも、正直、それでもいいと思ったのだ。

週5日、忙しく働けば、自然と書くことを諦められると思っていたから。

週3日しか働いていなかったあの頃、満足な結果を出せなかった。その時点で、うすらぼんやり「才能がないんだ」と思っていたし、誰に対してかわからないけど、後ろめたさがあった。「趣味で書いている」なんて一度も思ったことがないけど、プロじゃないんだから「趣味で書いている」のを、結局は超えられない。趣味を楽しみたいから週3で働くって、20代がすることじゃないだろう。現役世代を頑張りぬいた人たちが、余生ですることだ。

私に才能があれば、今頃とっくに上手くいっている。どうせこれ以上やっても上手くいかないんだから、ちゃんと働いたほうがいい。社会に貢献したほうがいい。それくらいしか、生きている価値がないんだから。


――だけど、どうしてなんだろう。一文字も書けなかった10月、とにかく苦しかった。文章を書けないことが苦しくて、なんのために生きているのかさえよくわからなかった。

涙をこえらえながら残業し、駅のホームで涙があふれ、電車のなかで無理矢理ひっこめる。くたくたになって帰宅し、無心で家事を済ませ、お風呂場で声を殺して泣き、ベッドで横になると自然と涙がこぼれて眠る。

ああ、書けないのに、なんで生きているのかなあ。


仕事の帰り道、信号が青に変わるのを待ちながら、ものすごいスピードで行き交う自動車の群れをぼんやりと眺めていた。ふと、「書けないなら死んでもいいな」と思った。

ああダメだ。「死にたい」って思うのは普通の精神状態ではない。こんなに気持ちがぐらぐらするくらい、私は書くことが好きだったのか、書きたかったのか。なんでここまでしないと自分の気持ちに気づけないんだろう。許可できないんだろう。

仕事より書いたほうがいい。
死ぬくらいなら書いたほうがいい。
それで結果を残せなくても、何者にもなれなくても。


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派遣会社との契約が「初回は一ヶ月」だったこともあり、担当さんに「更新しません。退職させてください」と伝えた。担当さんには驚かれたけれど、残業が多いこと・一人で15名の営業をサポートするのに限界を感じていたことは都度伝えていたので、就業先にもすみやかに連絡してくれた。

仕事を一ヶ月で辞めるなんて、ほんとにクズだな。と、自分でも呆れた。私がこんなにクズだとも思っていなかった。

職場の人は、みんな穏やかでやる気があって「いい人」と表現するほかないくらい、申し分のない「いい人」だった。あまり事務スキルのない私にも、怒らず優しく仕事を教えてくれたし、どんなに忙しそうにしていても、私の質問になんでも快く答えてくれた。

仕事の合間を縫って一生懸命教えてもらったのに、すぐに辞めることが申し訳ない。前の職場で後輩の育成をしていたから、人に仕事を教えるのがどんなに大変時間がかかるか、私だって重々承知している。仕事を教えた後輩が会社を去っていく悔しさも、経験したから知っている。だからこそ、自分がされて悲しかったことを人にしてしまうことが、本当に情けなかった。

就業先の人は「働きやすくなるように業務体制を改善するから、考え直してほしい」と何度も言ってくれた。「仕事の覚えも早いし、玄川さんがいてくれてみんな助かってる」とも。もったいない言葉だった。とてもとてもうれしかったけど、そんなこと言ってほしくない。罪悪感で死にそうになる。一ヶ月で音をあげた私を、けちょんけちょんにけなしてほしかった。

「いや、違うんです。みなさんは何も悪くなくて、改善するのは私のほうなんです。私が本当の自分の気持ちから目を背けてしまったのがいけなかった。仕事以外に譲れないものがあって、これからはできるだけそれを犠牲にしないように生きていきたいんです」

最終出勤日、たった一ヶ月しか一緒に仕事をしなかったのに、営業さんたちはみんな私に感謝してくれた。もうこんなに優しくていい人たちとは働けないかもしれない、また辞めたことを後悔する日がくるかもと思いながら、深々と頭を下げて会社を去った。


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私が物語を書き始めたのは、小学2年生の時だった。それから、小説だったりブログだったり自分語りだったり、「カタチ」を変えたことはあったけど、かれこれ20年以上、生産性のない文章を書き続けている。

20年続けてきたことを、急にはやめられない。結果が出ないからって、そんな理由で簡単にやめられなかった。やめられたら、もっと楽に生きられただろうにと、自分でも哀れに思うし嗤ってしまう。

私に夢なんてなければ。書かずに生きていられたら。普通に正社員として週5日働いて、普通に残業してお給料とボーナスがもらえて、普通に都会のマンションで暮らしていけるくらい金銭的な余裕があって、普通に子どもを産んで育てていけるくらいの貯蓄ができて、普通にCMに出てくるような温かい家庭が築けたかもしれないのに。それでも、私は「一般的な幸せ」より、「文章を書いて生きたい」と思ってしまった。私の文章なんて一円の価値もないのに、いくら書いても全然生活できないのに!!!


――こんな生き方になってしまったことの責任は、自分でとるしかない。正社員をやめて派遣に切り替えた時から、いわゆる一般的な「普通の道」から外れることはわかっていた。もちろん、そのリスクを知ったうえで選んだ。「覚悟を決めた」と言ったら、少しは聞こえがいいだろうか。

失敗して、不幸になったとしても。豊かに生きられなかったとしても。普通の人生を歩めなかったとしても。もうしょうがない。だって、この私が、私自身が、それでもそう生きたいと選んだのだから。



退職して数週間後、運良く別の就業先が見つかった。今度は、創作活動との両立を考えて、働く日を週4日に減らした。ある程度の不安定さはぬぐえないけど、望む生き方に合わせて働き方をカスタマイズできるのは、「派遣社員」という雇用形態ならではなのかもしれない。

基本的に残業はなくて、まあある日もあるんだけど、一日休みが多いだけで心にだいぶ余裕がもてるようになった。就業先の人も、私が創作活動をしていることを知っていて、仕事と両立できるように配慮してくれている。その気持ちがありがたいから、仕事にも、作品づくりにもが入るようになった。


文章を書くことの「意味」を教えてくれたあの一ヶ月を、絶対に忘れないだろう。もう二度と、本当の気持ちを見誤って、人に迷惑をかけることだけはしたくない。同じ過ちを繰り返さないように、これからも「どう生きたいか」常に自分に問い続け、選び続けていく。それが、どんなに「普通」とかけ離れていたとしても。



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