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謎の校則~就活ルールで“みんな同じ”が作られる。

少し前、ブラック校則が大きな社会問題になりました。

地毛でも黒に染めなければならないとか、下着は白しかダメとか、体育の授業は真冬でも半袖とか・・・

意味が分からないどころか、ほとんど人権侵害としかいえないレベルの理不尽なルールが、今でも完全に改善されてはいない学校もあるようです。

学校を卒業していよいよ社会人になると自由かと思いきや、今度は謎の就活ルールが待ち受けています。

それぞれの個性の違いや人間的な特徴などは完全に無視されて、あたかも金太郎飴のように同じ服装、同じ立ち居振る舞いが求められることになります。

昨日までは内申点という謎の評価に翻弄されていた彼ら彼女たちが、今度は謎の就活ルールに右に倣えをすることを余儀なくされます。

そして、晴れて社会人になって独立独歩で歩み始めようとすると、次に待ち受けているのは、マナーや慣例という職場の謎のルール。

接客業で勤務中に水分をとってはいけないとか、上司にお酌をしなければならないとか、冬でも屋外の作業で防寒具を着てはいけないとか・・・

もちろん、旧態依然たるルールをみなおそうとする動きは加速していると思いますが、まだまだ古き慣例にこだわるマインドの人は多いように思います。




社会のあちこちでデジタル化が進んで、コロナ禍への対応で仕事のオンライン化や自由な働き方へと世の中がシフトする中で、なぜこんな状況がなかなか改善されないのでしょうか?

理由は、ふたつあると思います。

ひとつは、男性と女性とを整然と分けることで、組織や社会を管理しようというポリシーです。

就活では、必ず男性は男性の、女性は女性の決まりきった服装をすることが要求され、身だしなみだけにとどまらず、言葉づかいや行動面でも男らしさ、女らしさが求められることになります。

本来、すべての男性が男らしい価値観しか持っていないとは限らず、すべての女性が女らしい振る舞いや生き方を望むとは限りませんが、もっとも可視化された服装において、端的に男性、女性というタグ付けがされることで、あたかもそれ以外の価値観や志向性はないかのような集団原理に身を置くことになるのです。

このような価値観に埋め尽くされた組織の論理においては、男らしくない男性、女らしくない女性は、単に多数派とは違った見た目をした少数派と目されるだけではなく、そもそも集団への適応ができず組織への忠誠心がない“問題児”として、徹底的に人間性が疑われ組織から排除されるような圧力がかけられることになります。




ふたつめは、上位者(上司や先輩)と下位者(部下や新入社員)とを、組織上の役割や職制の範囲を超えて、全人格的な“上下関係”として意識させようというポリシーです。

みんなが同じ服装に身を包み、みんなが同じ行動を取らなければいけないというカルチャーは、規律性や秩序を重んじる伝統的な組織運営の礎というプラスの要素もありますが、人それぞれが違う個性を発揮することで独自の魅力を高め、それぞれが異なる個性を発揮し合うことで厚みのある協働関係が築かれ、それが組織全体の成長を後押ししていく流れを阻害する意味では、マイナスも大きいといえます。

このようなマイナス面は、時代が変わり社会経済の仕組みが変化することで、男性=仕事、女性=育児・家事という役割分担が揺らぎ、コロナ禍によってそのような変化の流れがさらに加速することで、目に見えるかたちで重くのしかかってきているともいえるでしょう。

サラリーマンの“スーツ文化”に代表される全体に均質化を求めるルールは、組織に属する構成員に男性と女性というタグ付けを明確にすることで、個性の平準化と固定された性別役割の意識化がもたらされ、結果として組織への忠誠心を求め、上司や先輩の意思が絶対とする風土を生み出すことになります。




この構図の本質は、あたかも男性=総合職、女性=一般職が当たり前とされた時代の絵と何ら変わっていません。

ここでの登場人物は、一般男性、管理者男性、女性の3者。典型的な性別役割による社会のトライアングルです。

一般男性は、努力を重ねて実績を積むことで将来自分が管理者男性になる可能性を信じて、ほとんど疑問を感じずに組織の論理に身を染めます。

心の底では個性を秘めつつも、表面上は迷いなく金太郎飴を演じ、経済的社会的地位を築くことを優先するため、外部から見れば彼は誰よりも従順な構成員になります。

ところが女性は、一部の例外(世にいう「名誉男性」的な存在)を除いては、男性のような「一般」「管理者」という階層構造を持ちません。

だから、彼女たちは就活が終わったらいち早くリクルートスーツを捨てて、思い思いの個性を発揮していくことになります。

もちろん、業種・業態による違いや個体差はあるにせよ、男性ほど金太郎飴に染まることはないのです。




ところが、時代は変わりました。このようなトライアングルのモデルによっては、一般男性、管理者男性、女性の誰もが、決して十分にはメリットを享受できないのが今の社会の実態です。

同一労働同一賃金、女性活躍推進の時代、一般男性が、かつてのような“出世コース”に乗って栄耀栄華を極める可能性は、ごく一握りの例外を除いて現実的に遠のきつつあります。

度重なる法改正によるハラスメント防止、コンプライアンス強化の時流の中で、管理者男性が、上司や先輩であるからという理由で部下や後輩よりも全人格的に優位に立つことは、ほとんど不可能になりつつあります。

賃金水準の変化や年金制度、扶養制度などの変遷によって、女性が結婚したら経済的に一生安泰という世の中は実質的に終わっており、男性同様にフルタイムで働くのがスタンダードという生き方が、男性育休の強化などによってもさらに後押しされていきます。




ブラック校則、謎の就活、そして金太郎飴の社会人ルールが、いまだかつてないほど問題視される本当の意味は、ここにあると私は考えています。

日本人は変化を嫌い、集団に足並みをそろえる気質が強いといいますが、さすがにここまで述べたような現実を踏まえると、一定のリスクを賭してでも、個性を尊重し発揮し合うことで全体利益を目指すのが現実的な時代なのではないかと思います。

このようなトレンドの変化は、10年、20年というスパンではなく、おそらくここ数年の流れの中でさらに明確になっていくような気がしてなりません。

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橘亜季@『男はスカートをはいてはいけないのか?』の著者
学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。

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