資本主義に染まっていない野菜の美味しさ——『武器としての「資本論」』を読んで
東京で、値上がりした110円のペットボトルの水を飲みつつ、140円のコンビニパンを食べている。
実家にいた頃、おやつとして山盛りのフルーツを頬張っていたあの時間が、どれほど充実していたかを思い出す。
筆者は指摘する。「現代人は、ネオリベラリズムの価値観に侵され、魂を資本に包摂されてしまっている」と。その自覚はある。そうは言っても、スキルを身につけなければ、稼ぐことはできない。スキルを身につけて応用することにも楽しさがある。スキルを身につけていきながら一定の時給で働くことは、自分の労働価値を下げていることも自覚している。仕事を素早く終わらせることは、自分の利得にはなっておらず、究極的には資本に奉仕しているだけであることも自覚している。そういった自己矛盾を理解した上で、東京生活を送っている。
だからこそ、実家から送られてくる「ひん曲がったキュウリ・大きさがバラバラのトマト」ほど美味しいものは無い。資本主義に染まっていない味がするのである。キレイさを追求しすぎると、情報量が少なすぎてつまらなくなってしまう。スーパーに並んだ「まっすぐなキュウリ・大きさの整った球体のトマト」を見てそう思う。
プライベート生活で資本主義に抗いながら、仕事では資本主義に従順になり、「AIで仕事を奪う」仕事をやっている。しかし、AutoMLの登場で、そんな仕事もいずれ奪われそうである。その頃には、リスキリング制度の基盤が整っていることを願う。もしくはマネジメント側に移り、部下たちに「成長」という餌を与えて、スキル獲得と利益向上に勤しんでもらおうと思う。
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