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心のシミュレーション

人間関係エクササイズに本気で取り組んでいきたいと思い、まずはイメージの中で自分の不快感がどこで起きるのか見極めていこうと思いました。

思い切って新しいリスクに飛び込むのもエクササイズなのかもしれませんが、もう何十年も何ヶ所もそうやってリスクのある集団に飛び込んできた結果、心はズタボロになり、結局その集団のメンバーが悪かった、私に合わなかった、理解が無いなどと言い訳をして、自分の弱い弱い正当性を信じようとしてきたのです。
結局どこに行っても同じようなことを繰り返して、最終的には「私は人間社会で必要とされていない人間なのだ。私が関わるとみんなが迷惑する」と思い込むようになってしまいました。
おそらく集団でのトラブルは、みんな微妙に違っていたのかもしれませんし、そこから学ぶべきことが多々あったのだと思いますが、疲れ切って考えることもできなくなると、「私というトラブルメーカーがいることで集団の輪がかき乱される。私さえ関わらなければ安泰なんだ。」と、とても視野が狭くなり、自分を徹底的に自虐して引きこもるしか方法が無くなるという危険な状態になってしまいます。
ただ経験すればいい、我慢すればいいというのは、乱暴で不毛な考え方なのだとようやく気づくことができました。

そもそも幼少期から母は暗に、
「勉強が出来て、お行儀が良くて、可愛げのある、他人に自慢できるような子どもでなければ、存在する意味がない」
というメッセージを、私への接し方で伝え続けてきたわけです。
勉強は、ゆっくりであれば理解出来る方でした。ただ認知が弱く、手先が不器用なために、何かをやりはじめるのにとても時間が掛かりました。
母は、私がゆっくりと物事に取り組んでいるのが許せずに、途中で母が取り上げて代わりにやってしまうことが多く、私は自力で身につけようとしていた努力の芽をことごとく摘み取られてしまったのです。

日体大の学長だったかな?
「運動神経というものは、先天的に差異があるものではなく、練習の時間に比例して身につく」
というお話をされていました。
運動神経に限らず、あらゆる能力に言えるのではないかと思います。
運動神経も学習能力も、要は『手続き記憶』をいかに多く多様に自分の身体に植え付けられるのか?というところが大きいのだと思います。
そうなると、母によって練習や努力の機会を奪われた私は、真っ当に育った人よりも、身についている能力が少ないです。

社交についても、人と接することに恐怖があったので、練習する機会が少なく、恐怖感が強いのですぐに関係を切って逃げ出してしまうので、適切な距離感を身につけるまでにいたらなかったのです。
そうすると、人と上手く関われない、基本的な仕事が出来ないという問題が出てきてしまうのです。
『当然出来る』と思われて、全く出来ないところを見せると、相手は当惑します。
俯瞰して見れば、私に対して当たりが強くなるのは当然の成り行きなのです。

そういう条件を網羅して考えると、ただただ人手不足、業務過多のところに飛び込んで、結局一人前の仕事ができずに周りから一斉に非難されるというようなことを繰り返せば、いかに自分がダメな人間か見せつけられるだけで、対人関係のエクササイズにならないのは当然です。

今自分の持っている力が活かせて、遠慮しないで話せる場所で、人を信頼することや相手の気持ちを汲み取る練習をするのが最適なのでしょう。

ふと、私はいくつかそういう場を持っていることに気づきました。
そこに行って非難されたことはなく、むしろ私のことを頼ってくれる人が多い……。
もしかすると『仕事』『お金』にまつわる人間関係というのは、本来の人間の信頼関係とはかなり性質の異なるものなのかもしれませんね。
そういう『特殊な』『駆け引き的な』人間関係に、あまりにも免疫がなかっただけなのかもしれません。

仕事・お金にまつわる人間関係を、いかにドライに心まで巻き込まれずに割り切っていけるか?
それにはやはり、心地よい関係の中で『私は私のままで大丈夫』という自信をつけていくところから始めなくてはならないのかもしれません。
それこそ幼児が、怖くなったら母親のところに戻り「大丈夫」と抱きしめてもらうことで、「自分は自分のままで大丈夫だ」という信念を持てるようになるのと同じように!

心のエクササイズは、駆け引きのない信頼関係で安心感を得ること。
そして一つでも多く、自分の特技を磨いていくこと。
その上で荒波の中に飛び込んでみて、強い波に打ち付けられても泳ぎ切れるという信念を持てるようになること。
そういう順番で取り組んでいくのが一番近道なのかもしれません。

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