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自分という資源を活かす

手続き記憶の欠如
という視点が、これまで上手くいかずに、自信を無くし、先に進むことを恐れていた自分の生き方に、大きな転換を与えてくれそうな気がします。

私は、親が『人間育て』という能力を持っていなかった上に、子どもの私を厄介者として扱ってきたことにより、様々な学習機会を奪われてきました。
ひと口に『ネグレクト』と言っても、健康を害するくらい放置したことが問題なだけではなくて、放っておいては人間としての生き方を学ぶことのできない『子ども』に、何もやらない、やらせないことで、人格形成を阻害してしまうことが問題なわけです。
適切な時期に適切な経験をさせないことで、生きるために必要な『手続き記憶』の形成を妨げます。

学校の勉強は、先人の開発した知識や技能をただなぞるだけですから、自ら自分の生き方を作り上げることには、ヒントにはなっても力にはなりません。
手続き記憶は、自分の意思で、自分で工夫して、自分で練習して、身につけていくものだからです。

しかし赤ん坊が、今現在の社会の中で、何かを『やりたい』という意思を持って手続き記憶を獲得していくためには、親の生きる姿勢や親の見守るまなざしが必須なのです。

『親が無くとも子は育つ』
とは、誰が言ったのでしょうか?
親の思う通りには育たないけど、親(庇護者)が居なくても一人の人間として生活できるように育つことはあり得ないのに……。

そんなことを考えていたら、これから私のやるべきことがだんだんとはっきりしてきました。
欠如している手続き記憶は、もう、過去に戻って取り返すことはできません。過ぎた人生をもう一度やり直すこともできません。
だからこそ、私は空白の『数十年間』に身に付かなかった『手続き記憶』を、これから死ぬまでに一つでも多く身につけていかなくてはならないのです。

私は、この手続き記憶の欠如から生まれる問題を、『自分にはもともと能力が無いからできない』とか、『自分は人から嫌われるタチである』と勘違いしていました。
しかし単に、『ほとんどの大人が当然持っている手続き記憶を獲得する機会がないまま、年を取ってしまった』がために、年相応のことができず、社会人として未熟なことが多く、それゆえに人の不信を買っているということだったのです。

手続き記憶を獲得するまでには、多くの失敗をし、恥ずかしい思いをし、痛い目に遭うことも必要です。
そして嫌だからと言って、やらなくなると、永遠に手続き記憶を獲得することはできないのです。

幼児のうちなら、この『恥ずかしい失敗』も無自覚なままで過ぎていきます。
それを意識させ、「それでもあなたは大丈夫!」と見守るのが親の務めです。
すると幼児は、親に良い姿を見せたくて、親を悲しませたくなくて、頑張るのです。
そうやって自分の振る舞い方を整えていきます。
自分を良く見せるための『手続き記憶』を身につけて行くのです。
大人になってもそれらが獲得できていないと、とても恥ずかしい思いをします。
今まで『この年で恥ずかしい』とか、『みんなからバカにされているような気がする』と言って、やめてしまった多くのことが、本来なら子どもの頃に身につけておくべき『手続き記憶』だったのかもしれません。
自分1人で判断しなくてはならないのですから、中には本当に方向性を間違えていたこともたくさんあると思います。
それはそれで、早めに気づいて諦めることが必要ですが、その中で必要なことも諦めてしまっては元も子もありません。

これから大切なのは、自分には何が必要なのかを冷静に正しく判断して、諦めずに取り組んでいくことなのだと思います。

ところが厄介なことに、
私が諦めてしまう原因は、「恥ずかしいから」とか、「面倒だから」という気分的なものではなく、トラウマが身体に及ぼしている影響が、とてもとても大きいのです。

私は、人から怪訝な顔を向けられたり、注意を受けたりすると、心臓がキューっと縮まって身体中が熱くなり、冷や汗がどっと流れ出します。そして意識がどこか遠くに行くような感覚に陥ってしまいます。
仲間内の中で1人だけ浮いていると感じた時や、私だけ不当に排除されたと感じた時も同じです。

これは、小学校の時、母に手伝ってもらった宿題が先生にバレて、みんなの前で叱られた時や
1人別室にいて、他の家族が楽しく団欒する声が聞こえた時、
友達の輪の中に入ろうとして嫌な顔をされた時、
みんなのノリに付いていけなくて、置いてけぼりをくったとき、
などなど、過去の出来事と、とても深く結びついています。

小さい頃に、家族からの排除、学校からの排除、集団からの排除を受けることがあまりにも多く、その都度大きな心の痛みを感じてきたため、心は麻痺してしまったけれど、身体がその悲しさ悔しさを覚えていて反応するわけです。

トラウマの研究者は、その反応を、動物の生存に必要だったものとしています。
小さい子どもにとって、親から見捨てられること、友達や学校のような『集団』から見捨てられることは、生きる力を奪われるのと同等です。
動物にとって『仲間から見捨てられること』は、敵に襲われ、食われることを意味するからです。

動物は敵に襲われると、反撃するか逃げるか、どちらかの反応をして、身を守ります。
しかし動物の仔が仲間からはぐれるということは、すでに死を意味しているわけです。
動物が戦うことも逃げることもできなくなり、敵が自分を食おうとしている時にはどうするか?
少しでも身体の痛みを感じないように『凍りつく』のだそうです。全身麻痺です。
『凍りつき』は、動物が命が尽きる時に、最期の最後に身を守る反応なのだそうです。

私の身体感覚は、その時の『凍りつき反応』なのでしょう。
この反応が起きる事がとても不快で恐ろしく、これまでそのような感覚を引き起こす場を避けてきました。
しかし、その反応以外には何も問題は起きないのです。だから「なぜ辞めるの?上手くいっているじゃない?」と惜しまれることもありました。
つまり自分の過去からの防衛反応に怯えていたのです。
私はきっと、幼児期に何度も死を覚悟したのでしょう。
自然界だったら、育児能力のない親に育てられた子どもは死んでしまいます。その死の感覚を何度も何度も体験しているのです。

しかし私は生き残りました。
それは『凍りつき』によって、耐え難い苦痛を麻痺させてきたからです。
それほど生命力の強い個体だということ。
『100万回生きた猫』みたいです!

もう凍り付かなくて良いことを自分に言い聞かせて、身体の反応に怯えずに生きていく。
それがこれからの課題なんだと思います。
そしてそんな強い、ちょっとクセのある『自分という資源』を、社会で活かしていくことが使命なのでしょうね。

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