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手続き記憶

ピーター・A・ラヴィーン『トラウマと記憶』

この本を読むまで、トラウマとは、幼少期の辛い出来事から、何かをやろうとしても自信が待てなかったり、恐怖心が湧いてしまったりするので、克服するには、自分で自分をいたわり、なぐさめてあげることしかないのかなと漠然と考えていました。
辛い記憶に対処しようとして、いろいろな行動障害を引き起こしてしまう。
だから単純にその記憶と向き合って、自分に「大丈夫だよ」と言い聞かせることが大切なのだと思っていました。

しかし、この本には、目からウロコのことが書いてありました。
幼少期の不適切養育は、脳の萎縮や精神への負担を引き起こすとともに、人間の成長に必要な『手続き記憶』の習得の機会を奪ってしまうのだと。
(本には、習得の機会の喪失よりも誤学習の問題について触れられています)

例えば自転車に乗る時、私たちは手と足の動きや、体と重心の関係や、目の動かし方を、1回1回考えながら乗っているわけではありません。
手続き記憶が、それらの使い方や絶妙なバランスを覚えているので、その記憶を再生するだけで良いのです。
ダンスやスポーツなど、複雑な動きはもちろん、日常生活のあらゆるものは、手続き記憶があるからこそ、こなすことが出来ているのです。

あることの手続き記憶を習得するには、まず本人が『できるようになりたい』というモチベーションを持っていること。
そして、初めは一つ一つ動かして失敗し、正しい動きを体に刻み込んでいくことが必要で、時間と根気を要します。
この時に重要なのが、やはり本人のモチベーションの持続になるわけです。

不適切養育を受けると、まず『できるようになりたい』という本人のモチベーションが損なわれます。
「お前は何をやってもダメだ!」
と言われれば、自分は何もできないと思い込むようになり、そもそも何かを覚えようという気力も湧きません。
その状態で強制的に練習させられたとしても、手続き記憶に落とし込まれる前に、本人の気持ちが拒絶しているので、バランス良く記憶に取り込まれていかないのです。

ラヴィーン氏は、自転車に乗る練習の際に、転んでひどい怪我をして自転車に恐怖を覚えてしまうと、自転車に乗ることそのものを拒絶するか、乗れるようになっても危険を顧みないで乗るようになってしまうと書いています。
つまり、拒絶するか、恐怖を麻痺させるか、どちらかになってしまうのです。

これらのことが、日常のあらゆる行動に現れてしまうとしたら、毒親育ちの生活が安定しないのがとても良くわかります。
人間関係を結ぶための適切な距離や相手の様子を観察する姿勢も、『手続き記憶』によって行っている部分が多いのかもしれません。

自転車に乗る練習で転んで痛い目に遭ったら、自転車に乗ることを拒絶したり、危険を顧みない乗り方をしてしまうように、人と関わろうとして嫌な目に遭ったり、いじめられてしまったりしたら、人と関わることを拒絶するようになったり、手当たり次第に危険な関係を結んでしまったりすることが想像できます。
そもそも、人と関わることは恐怖と義務だとしか思えないので、自分の意思を無視して頑張るものでしか無くなってしまうのでしょう。

そういう視点で、何事にも不器用な私の生き方を考えてみると、納得のいくことばかりです。
私は、本当に自転車の練習で転んで恐怖を覚え、小学校5年生まで自転車に乗れませんでした。
自転車に乗れないということが知られることも恥ずかしく、練習することもしませんでした。
5年生の時に、前回の記事に書いたAちゃんが、秘密の練習に付き合ってくれて、ようやく乗れるようになったのです。
家事が苦手だったり、運動が苦手だったり、人間関係が苦手だったり……
もともとの性格や性質の影響も大きいのですが、多くは、不適切養育によって『できるようになりたい』というモチベーションを持つことができず、それゆえに『練習しなかった』ことが大きいのではないかと思います。

母は、本当に私の学習機会を奪うようなこともしました。
夏休みの読書感想文は、ほとんど母が書いたものを丸写しさせられていたのです。
母がゴーストライターでした。
だから私にとって作文は、苦行と恥でしか無かった。
また絵の宿題なども、母が手を加えてしまうこともあり、小学生にしては明らかに巧いところを担任に指摘され、白状して叱られるということもありました。
そもそも、文を書くことや絵を描くことは好きで、遊びでは書いていたので、それが手続き記憶として身に付いていたのと、中学校になって母が手を加えなくなり、自力で書いた作文や絵が優秀賞を取ったことで、それらを創作することのモチベーションにはなったのだと思います。

話が横道に逸れました。
人間には、あらゆることを習得する可能性はあるのでしょう。
それが脳機能や身体的な特徴によって、自分のモチベーションが向かう方向が決まってきます。
そのモチベーション『できるようになりたい』という意欲を元に、『手続き記憶』を習得するべく練習を積むのです。
この練習というのは、学校の勉強とか部活の練習とか、そんな瑣末なことではありません。
衣食住、仕事、趣味、対人関係、自然との共生、人格形成……生きるために必要なこと全般に対してです。
そうやってたくさんの手続き記憶を習得することで複雑な社会を生き抜いていけるのです。

さらに社会の良いところは、自分が持っていない技術を習得した誰かが担ってくれることで、誰もが、より楽に、楽しく生きられるようになる。
これが高度な人間社会の特典なのです。

しかし、その高度な技術を持った人に憧れて、基本的な手続き記憶が欠如している人がとても増えています。
人間がそうやって、ゆっくり確実に成長していく動物だと知らない人が増えてしまい、まだ体力や運動能力も追いついていない子どもを自転車に乗せようとして、転ばせ、恐怖心を植え付けてしまい、自転車に乗ることすらできなくしてしまう毒親がたくさん生まれてしまいました。

聞くはいっときの恥
聞かぬは一生の恥

ということわざがありますが、これは『手続き記憶』を習得する過程で、たくさん恥をかくことも自信を失うこともあるけれど、それを恐れないでしっかり身につけていかないと、一生恥ずかしい思いをすることになる、というふうに意味を展開できるかもしれません。

毒親や不適切養育によって植え付けられた羞恥心や自己否定を克服して、本当だったら幼い頃に身につけるはずだった基本的な生活の術を、もう一度地道に身につけること。
自分の中の『やりたい』というモチベーションを大切にすること。

それが毒親サバイバーに与えられた、最終的な試練なのかもしれません。

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