見出し画像

自分を大切にするとは何?

久しぶりに、1人でカフェでランチをとり、食後に甘いものを頼みました。
しかし、買ったものを預かってもらっていたので、時間が気になって気もそぞろ……
このミルクティー、後から「美味しかったなぁ」と思い出すのですが、何故かその時は、気持ちが半分約束の時間にとらわれていて、ゆっくり味わうことができなかったのです。
預けていた先でも、おおよその時間を告げていただけなので、焦る必要はなかったのに……。

私は、いつも気を張り詰めていないと、まともに仕事ができない。
私は人より覚えが悪い。
約束を破って信用を失うことが多い。
不器用なので、人一倍努力するべきだ。

長年、いろいろな仕事をしてきて、私はそう自分にプレッシャーを掛け続けてきました。
失敗したり、注意を受けるたびに、次こそ自分を変えよう。ポンコツな自分を、何とか使えるようにしなければ、と常に気を張り詰めてきました。
なので休んでいる時も、次に向けて心構えをしておかないと不安なのです。
確かに、私は素のままでは、社会人として通用しない部分が多いのかもしれません。
子育てを終えて、バリバリ働いている同世代を見て焦っていました。
せめて格好だけでも真似しようとしていたのですが、そもそも気質が違うので無理な話。
そうやって空回りしてしまったことで、身につくものもつかないうちに、ゆっくり休むこともできなくなっていました。

注意を受けることが多いということは、その内容が例え理不尽なものであろうと、
「あなたの実力は、この場には通用しないよ。あなたの雰囲気は、この場には合わないよ」
と警告されていたようなものなのかもしれません。
ー立ち入り禁止ー
という看板を無視して入って、管理人に注意を受けたようなものなのでしょうね。
『出来ないことは、努力して出来るようにする』
日本の企業はそういうことを従業員に課すことが当たり前になっているし、
自分自身でも、そうやって努力することが社会人の務めで、自活するために必要なことだと信じてきました。
結果、美味しいものをゆっくり味わうこともできない状態になっていたのです。

間違えた登山道を登ることに一所懸命になっていたので、遭難しかけていたことにも気づかず、まだ登ろうとしていたようです。
今はとにかく、新しい道を探すのに、体力を温存することが先決なのです。
疲れているので、人から言われたこと、ちょっとした約束事が、何倍にも重要に感じてしまい、「しっかりしろ!」と自分に鞭を打っていました。
そもそもの基準が違うので、同等に出来ないことがたくさんある。
他人を羨ましいと思っても、何も自分にメリットは無い。

自分の体力で登れる登山道を探すために、今後の自分の振る舞いかたを考えていかなくてはなりません。
そのためにはまず、心から休息を取る。
それが最優先事項のようです。

*****

追記

「これからどうしようかなー?」
と思った時、ふと、
『母に相談したい』
という心の声が聴こえてきました。
自分でも「え?」と思ったんですが……。

私が追い詰められている元凶である母に相談するなど、理性では最も不毛で危険なことだと分かるのですが、感覚として、困ったことを相談できる身近な相手で、自分のことを一番よく分かっている人は『母親』しかいないとインプットされているのではないかと思いました。
それが実際には『敵』だとしても。

裏返せば、
私は小さい頃から、私の生き方の指針をアドバイス出来る人が身近に居なかった。
だから、私は独自の方法を編み出して生きるしかなかった。
だからこそ、今社会とのズレに悩み、目標となる『人』が居なくて不安である。
ということなのでしょう。

路頭に迷って当然だし、私は私のやり方を自分で編み出して生き抜くしか無いのだな、と何か覚悟ができたように思います。

本当に母親を亡くした人も、生物的な母親は生きていても母親という存在がいない人も、1人で生き抜いていくしかないのですね、きっと。

自分の心に目を向け、自分自身を信じることが出来れば、どんなに社会からズレていようとも、生き抜いていける力はあるはずです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?