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松永久秀 最期の言葉 戦国百人一首㊺

松永久秀(1510-1577)は、日本の戦国三大梟雄(きょうゆう)として斎藤道三、宇喜多直家と並んで強烈な悪人だったとされている。
さらに日本初の爆死男の逸話が伝えられるインパクトの強い武将として知られる。同時に教養のある美男子だったそうだ。

45.松永久秀

「この平蜘蛛の釜と俺の首の二つは やわか信長に見せさるものかわ」

「この平蜘蛛の茶釜と俺の首の2つは信長に見せるものか」

おわかりのように、これは久秀の辞世の歌でも句でもない。
彼が1577年に信貴山城に立て籠もり、織田軍に包囲されて自害する直前に言ったとされる最期の言葉である。

平蜘蛛というのは、正式には「古天明平蜘蛛釜」と呼ばれた、蜘蛛が這いつくばったような形をした名物茶釜だ。

かつて久秀は織田信長に従ったとき、名物茶器として知られる九十九髪茄子(つくもかみなす)と呼ばれる茶入れを進呈した。
茶器収集に熱心だった信長は、それ以降何度も久秀の平蜘蛛も所望したが、それだけは断っていたという。
久秀の最期となった信貴山城の戦いにおいても、信長の家臣の佐久間盛信が平蜘蛛を城外へ出すことを求めたのだが、久秀はそれを拒否。

逸話では、茶釜に爆薬を仕込み、それを抱えた久秀が茶釜とともに爆死したとか・・・。
別の逸話では、茶釜をたたき割って自害したとも言われるが、いずれも事実ではないとされる。
なぜなら久秀の死後、1580年に平蜘蛛釜が存在していた記録があるのだ。
戦のあとで、現場のがれきの中から発見されたという。

さて、梟雄と言われた松永久秀とは、そんなにアクの強いワルだったのか?
彼の生涯をざっくり見てみよう。

久秀は摂津五百住の土豪出身説が有力だ。
もともと三好長慶の右筆として仕えていた。
重用され、大和国の支配もまかされていたが、三好長慶の死後、三好三人衆らに失脚させられてしまった。
そこで、足利義昭や織田信長と手を組み、信長が義昭を追放した1573年ごろから信長に服属。
ところが、1577年上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの信長包囲網に呼応して、信長の大坂本願寺攻めを急に離脱して信貴山城に籠城した。
そこで織田信長の嫡男・織田信忠を総大将とした大軍を迎え撃ち、最後に天守に火をかけて自害した。

さて、湯浅常山が記した『常山紀談』の説話に、「梟雄・久秀」の犯した3つの大罪が挙げられている。
織田信長が徳川家康に対面した際に、傍らにいた久秀についてこう紹介したのだ。

久秀とは、「世の人のなしがたき事三つなしたる者」。

その3つとは、
①将軍足利義輝の殺害
②主君・三好長慶の嫡子・義興の殺害
③東大寺大仏殿の焼き討ち
であった。

この内容が平蜘蛛の茶器と爆死する話とともに、松永久秀のキャラクターを形づくった。だが、近年の研究ではこの3つの大罪はほぼ否定された。

【足利義輝暗殺には関与していない】
1565年の将軍義輝を暗殺したのは久秀の息子・久通と三好義継らであって、久秀は京都に出陣さえしていなかった。

【三好義興を殺害していない】
久秀には無名の久秀を取り立てた恩人・長慶に叛く理由がない。しかも病気だった長慶の息子・義興の思い病状を深く嘆いていた事実がある。

【東大寺大仏殿焼き討ちは事故の可能性あり】
1566年、東大寺に陣取る三好三人衆との戦いの中、誰が大仏殿に火を点けたかは不明。翌年に久秀は大仏復興を支援している

こうなると、「悪人・松永久秀」に対するイメージは随分変わってくる。
彼から「ワル」と「爆死」を取り除けば、ただの「教養ある美男子」ではないか!

ただ、東大寺大仏殿の焼失と久秀の死には因縁がある。
久秀が亡くなったのは、1577年10月10日。
10年前の1567年10月10日こそ東大寺大仏殿が焼き払われ、大仏の首が落ちた日である。