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戦国百人一首

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戦国時代(室町時代から大坂夏の陣まで頃)に生きた人々の辞世を100人分紹介していきます。
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2020年6月の記事一覧

戦国時代の辞世を集め、心を込めて「戦国百人一首」を作る試み

辞世とは死にぎわに残す歌や詩のこと。 仕事で歴史上の有名人についての記事を書くとき、彼ら…

島津義弘の辞世 戦国百人一首⑬

島津義弘(1535-1619)は、⑫で紹介した島津日新斎(忠良)の孫だ。 「鬼島津」と呼ばれた猛将…

島津日新斎の辞世 戦国百人一首⑫

薩摩の戦国武将・島津忠良(1492-1568)の号が日新斎(じっしんさい)である。 「島津家中興の…

龍造寺隆信 最期の言葉 戦国百人一首⑪

「肥前の熊」との異名をとった龍造寺隆信(1529-1584)は、武勇に秀でた武将だったが、非情だ…

宮本武蔵の最期の言葉 戦国百人一首⑩

宮本武蔵(1584-1645)は、実在の人物である。 玄信(げんしん/はるのぶ)が本名で、武蔵は通…

三村元親の辞世 戦国百人一首⑨

備中松山城主・三村元親(?-1575)の辞世を紹介する。 ⑧で紹介した三村勝法師丸の父親だ。 …

三村勝法師丸の辞世 戦国百人一首⑧

この辞世の作者は三村勝法師丸(1567-1575)、8歳である。 のちに豊臣秀吉の五大老の一人となった戦国大名・小早川隆景の命により斬首された。     夢の世に 幻の身の生れ来て           露に宿かる宵の雷(いかづち) 私は夢のようなこの世に幻のような肉体を得て生まれ、宿となる露に身を潜めて生きている宵の雷なのだ 勝法師丸は、備中松山城主・三村元親の息子だった(元親は養父であり、実父は後奈良天皇だという説もある)。 1574年、父親の三村元親は、毛利氏が毛利

天草四郎の最期の言葉 戦国百人一首⑦

天草四郎(1623?-1638)は、『戦国百人一首』の時間軸から少し外れるが取り上げることにした…

中浦ジュリアンの最期の言葉 戦国百人一首⑥

彼はキリシタンに改宗して中浦ジュリアン(1568?-1633)と名乗った。 本名は中浦甚五郎。 天…

鳥居強右衛門の辞世 戦国百人一首⑤

鳥居強右衛門(1540-1575)という足軽が生涯で注目されたのは、長篠の戦いのとき1度だけだ。 …

立花道雪の辞世 戦国百人一首④

豊後国の戦国大名・大友宗麟が力を持ったのは、智勇節義を兼ね備えた立花道雪(1513-1585)が…

石川五右衛門の辞世 戦国百人一首③

石川五右衛門(未詳-1594)は、実在した人物だ。 義賊のイメージが強いかもしれないが、なかな…

茶々(淀殿)の和歌 戦国百人一首②

豊臣秀吉の次には、彼の側室・淀殿(1569?-1615)の歌である。 淀城を与えられて住んだため「…

豊臣秀吉の辞世 戦国百人一首①

第1回目は、多くの人に知られる豊臣秀吉(1537-1598)の辞世。     露と落ち 露と消えにし 我が身かな              浪速のことは 夢のまた夢 「露のように生まれ落ち、露のようにはかなく消えてしまう我が身であることだ。大坂での栄華の日々は、夢の中の夢のようにはかないものだったなあ」         天下統一を成し遂げた偉大なる秀吉も、皆と同じようにこの世に生まれ落ち、この世を去るときも皆と同じように去る。 秀吉の辞世は、彼の死よりも数年前から何度も