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茶々(淀殿)の和歌 戦国百人一首②

豊臣秀吉の次には、彼の側室・淀殿(1569?-1615)の歌である。
淀城を与えられて住んだため「淀殿」と呼ばれたが、本名は「茶々」だ。

醍醐の花見

      花もまた 君のためにと咲き出でて 
           世にならびなき 春にあふらし

「この美しい桜もまた、あなた(秀吉)のために満開に咲き誇り、この世に並ぶものがないほど、あふれんばかりの春にございます」

豊臣秀吉が亡くなる半年ほど前に行なった、「醍醐の花見」で淀殿が詠んだ和歌である。
辞世ではない。

「北野大茶の湯」と共に知られる秀吉が催した一大花見イベントは、1598年4月、京都の醍醐寺三宝院裏の山麓を会場にして催された。
この花の宴には、秀吉の息子・豊臣秀頼、正室・北政所(きたのまんどころ)、淀殿などの近親者、そして諸大名に仕える女房・女中衆など約1300名が集ったという。
秀吉、秀頼、そして前田利家以外は全て女性。
花と女性にあふれ、さぞかし華やかな催しだったことだろう。

しかしこの日、宴会の席では女の戦いが繰り広げられることになった。
「盃争い」「杯争い」と呼ばれる事件である。
秀吉が飲んだ杯のお流れを正室である北政所の次に誰が受けるか、つまり側室の序列で淀殿、松の丸殿(京極竜子)が争ったのだ。

淀殿の主張は、
・秀吉の世継ぎである秀頼の生母の自分が優先されるべき

松の丸殿の主張は、
・自分が淀殿の実家・浅井氏の主筋にあたる京極氏の出身である
・淀殿より先に秀吉の側室になっていた

である。

結局、前田利家の妻・まつが、
「家臣の妻ではあるが、年上の客人であり、北政所と長くつきあいのある私がいただきましょう」
と言ってその場を納めたという。

淀殿の上記の歌は、そんな醍醐の花見の時に読まれた歌である。
花までが秀吉のために咲く春。
そして、秀吉にとって醍醐の桜こそ彼が生涯で目にした最後の桜となった。

ところで、淀殿は秀頼の生母であることを武器に力を持ったが、実は秀頼の父は秀吉ではないという噂がある。
秀吉は多くの側室を持ちながら、淀殿以外の誰一人として彼の子を持つことが出来なかった。
彼に子をなす力はなく、息子の秀頼は淀殿と誰か(一説には大野治長)との不倫の子である可能性があるのだ。

それでも他に世継ぎを持たない秀吉は、秀頼を自分の子として認めるしかなかった。
自らの臨終の折には、豊臣家の五大老たち(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)らにまだ幼い秀頼の将来のことをくれぐれもよろしくと遺言している。

死期の近い秀吉と共に過ごした最後の花の宴で、淀殿は華やかな歌を詠みながら何を考えた?

秀吉と迎える春を素直に喜んだのか。
花に託して彼を讃えるという計算か。
それとも、歌の内容とは裏腹に浅井家の血を引く自分が、母・お市の仇である秀吉の側室となり、豊臣家に秀頼という形で浅井の血を残すことを心の中では喜んだか。