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豊臣秀吉の辞世 戦国百人一首①

第1回目は、多くの人に知られる豊臣秀吉(1537-1598)の辞世。

【完成形】夢のまた夢

    露と落ち 露と消えにし 我が身かな 
            浪速のことは 夢のまた夢


「露のように生まれ落ち、露のようにはかなく消えてしまう我が身であることだ。大坂での栄華の日々は、夢の中の夢のようにはかないものだったなあ」        

天下統一を成し遂げた偉大なる秀吉も、皆と同じようにこの世に生まれ落ち、この世を去るときも皆と同じように去る。
秀吉の辞世は、彼の死よりも数年前から何度も添削を受け、手直しして作られたものだそうだ。

その甲斐あってか、数々の辞世の句の中でも特に優れた美しい歌である。
秀吉は、貧しい家の出身だったので、幼少のころから武将としてきちんとした教育をうける機会はなかった。
だから、彼は自分に学がない分だけ努力もした。
戦国武将としてのセンスと同時に、学問にもセンスのある人だったのだろう。

そしてこの歌には、和歌としての出来上がりレベルとは別に「いかにも」な秀吉の性格が表れていると思う。
彼は自分の最期の時も、完璧にしたかったのだ。

黄金の茶室を生みだし、聚楽第を作り、大坂に築城した金ピカの派手好き男。
北野大茶会や、亡くなる少し前に行った醍醐の花見のような華やかなイベントも大好きだった。
織田信長が1581年に実施した、きらびやかに着飾った信長軍団によるパレード「京都お馬揃え」に参加できなかったことをとても悔しがったという秀吉。

それを思えば、秀吉が推敲に推敲を重ね、最高の出来の歌を自らの最後の花道に用意しようとしたことは想像に難くない。
どこか華やかな香りをたたえながらも、避けることのできない「死」を思い知る自分を歌にした。

幾多の戦いに勝ち残り、栄華を手に入れたー。
しかし、そこにはどんなに高い地位についても逃れられない、誰もがいつかは直面する「死」が待っている。
彼も例外ではなかった。

しかし、死んで自分の身体は朽ち果てても、和歌は残る。
ならば、せめて「さすが秀吉公の歌は素晴らしかった」という有終の美で最期を飾ろう。
必死で金ピカに繕おうとしている秀吉が見えるような気がする。
そして、辞世というのはそれでいいんだとも思う。