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中浦ジュリアンの最期の言葉 戦国百人一首⑥

彼はキリシタンに改宗して中浦ジュリアン(1568?-1633)と名乗った。
本名は中浦甚五郎。
天正遣欧少年使節の栄誉ある4名の少年のうちの1人としてローマへ行き、帰国後イエズス会のカトリック司祭となった。

中野ジュリアン

この大きな苦しみは神の愛のため

最期に上記の言葉を残して息を引き取ったとされる。
「穴吊り」と呼ばれる拷問によって責め殺された。
これが天正遣欧少年使節としてローマへ行った人物の末路となった。

今から約400年前の1582年、ローマへ向けて13歳から14歳までの4人の少年が長崎から旅立って行った。
4人とも肥前の有馬にあったセミナリヨ(神学校)の生徒の、
伊東マンショ
千々ミゲル
原マルチノ
中浦ジュリアン
だった。

アレッサンドロ・ヴァリニャーノが、天正遣欧少年使節団による旅を計画・実行した。
彼は、キリスト教の布教を日本で推進していたイエズス会の巡察師だ。

遣欧の目的は、
1. ローマ教皇やスペイン・ポルトガルの国王に、日本での布教のための精神的・経済的援助を依頼するため
2. 日本からヨーロッパへ送る使節を司祭にして、日本人が日本でキリスト教を布教できるようにすること
であった。

嵐、船酔い、疫病、海賊、暑熱による食糧の腐敗で食糧不足ー。
困難と闘いながらようやくポルトガルのリスボンに到着した4人の少年たちは、ヨーロッパで別世界を見た。

スペイン国王やローマ教皇に謁見し、戴冠式や舞踏会にも参加した。
ローマでの市民権を与えられ、貴族になった。
帰国の際には、日本での布教に必要な資金や贈答品、旅費まで与えられるほどの厚遇だった。
当然4人は1590年に意気揚々と長崎に戻ってきたのである。

しかし、日本を留守にした8年半という時間は、彼らの母国での立場をあまりにも大きく変えてしまっていた。
聚楽第での関白・豊臣秀吉への謁見は無事終了する。
だが、実は秀吉はキリスト教を嫌い、使節団が帰国する3年も前に伴天連追放令を発布していた。
国内の宣教師は追放されていたのだ。

それでも4人はイエズス会に入会し、日本での布教に命を賭けることにした。
キリスト教への弾圧はますます酷くなり、活動拠点を次々と追われる4人。やがて千々ミゲルは棄教した。
残り3人は司祭となったが、伊東マンショは早くに長崎で病死、原マルティンは追放先のマカオで客死した。

中浦ジュリアンは国内での活動を辞めなかった。
徳川時代のキリシタン追放令下でも、殉教覚悟で地下活動を続けたのである。

1632年彼はついに小倉で捕縛された。
長崎で10ヶ月もの責め苦にあったが、棄教しなかった。
そして今度は、他のイエズス会の司祭や修道士たちと共に穴吊りの刑に処せられたのである。

刑というよりは拷問だ。
全身をぐるぐる巻きに縛られた。
こめかみに穴を開けられ、2mほどの深さの穴の中に逆さに吊られる。
全身の血が頭に溜まり、こめかみの穴から血液が数滴ずつ滴り落ちるというわけだ。
そう簡単には死なせてはもらえない。
苦しい。
あまりの過酷さに棄教した司祭もいたが、他の者たちは全て殉教した。
最初に亡くなったのが中浦ジュリアンだった。
享年65。
穴吊りにされて4日目だった。

2007年、ローマ教皇ベネディクト16世によって、中浦ジュリアンは天正遣欧少年使節の中で初めて福者*に列せられている。
(*福者とは、カトリック教会において死後に徳や功績が認められたものが与えられる称号のこと)