見出し画像

天草四郎の最期の言葉 戦国百人一首⑦

天草四郎(1623?-1638)は、『戦国百人一首』の時間軸から少し外れるが取り上げることにした。
日本最大規模の一揆である島原の乱は、幕末の動乱以前では最後の本格的内戦だからである。
そして天草四郎は、島原の乱の中心人物だった。

天草四郎 決定

今籠城している者たちは来世まで友になる

天草四郎、天草四郎時貞の名で知られる彼の本名は、益田四郎である。
キリシタンで、洗礼名は最初ジェロニモだったが、のちにフランシスコに変わった。
関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れたキリシタン大名・小西行長の家臣であった益田好次(ますだよしつぐ)の子だと言われる。
母の名はマルタ。
2人の妹があり、家族全員キリシタンというキリシタン一家だ。
出生地については、天草諸島、長崎、宇土など諸説あり、生年も正確にはわかっていない。

1612年、徳川幕府による禁教令の影響で、天草にいた宣教師・ママコフ神父はマカオに追放された。
その彼はこう予言した。

「25年後、16歳の天童が現れ、パライゾ(天国)が実現するだろう」

1637年に島原の乱が勃発した。
大凶作にも関わらず重い年貢を課せられ、その上信仰も許されないという天草領主の寺沢氏、島原領主の板倉氏らの圧政に追い詰められたキリシタン農民たちが大一揆を起こしたのだ。

その時に出現したのが天草四郎だった。
教養があり才気煥発、医術の心得があり、キリストの教義にも詳しい上に、なんといってもカリスマ性を持ち合わせた美少年だった。

カリスマ少年・天草四郎を大将にして約3万8千人の農民たちが、廃城となっていた原城に立て籠もった。
「天人」と呼ばれた四郎が軍を率いていたと史料にあるが、実際は彼の父親を含め周囲の人間が、一揆軍の戦意を高揚させるために四郎をシンボルに利用したのだ。
彼のことをまるでキリストの再臨のように演出し、弾圧のために棄教していた島原、天草の元キリシタンの信仰を復活させ、蜂起させたのである。

四郎が起こした奇跡として、
「手のひらの上で鳩が産んだ卵からキリスト教の経文を取り出した」
「海の上を歩いた」
「盲目の少女の視力を回復させた」
などが挙げられる。
これらの逸話も彼のカリスマ性・神秘性を高めるために、福音書にある言い伝えなどを二次創作したのだろうと考えられる。

四郎は、白衣を着て髪の毛を後ろで束ね、前髪を垂らして歯にはお歯黒もしていたらしい。
原城の中で四郎は洗礼を授けたり、説教を行っていたという記録が残っている。
彼は戦う農民たちの精神的サポートを行い、存在することで彼らの心の支えとなっていたのだ。

幕府は一揆の鎮圧に半年間に約12万人を動員した。
一揆軍による原城での籠城は3ヶ月もちこたえたが、最後には弾薬・兵糧が尽き果てた。
1638年の幕府軍による総攻撃に対し、鍋や釜なども投げつけて最後まで抵抗したという。

一揆軍は幕府軍に内通していた一人を除き、老人や女子供も皆殺しにされた。
殉教を重んずるキリシタンとして、全員がその死を受け入れたという。

落城の寸前、天草四郎時貞が残した上記の最期の言葉は、16歳のキリシタン少年が残した純で真っ直ぐな宣言だった。

四郎の最期についての詳細は分かっていない。
熊本藩主・細川忠利の家臣である陣佐左衛門(じんのさざえもん)によって討取られたという。
幕府側は四郎の容姿を把握していなかったので、彼の首は、既に幕府側に捕らえられていた四郎の母・マルタの検分により確認された。
その後、母親の首と共に長崎に送られ、晒(さら)されたという。

幕府はのちに、圧政によって一揆を起こさせる原因を作った島原藩主・板倉勝家を斬首している。