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三村勝法師丸の辞世 戦国百人一首⑧

この辞世の作者は三村勝法師丸(1567-1575)、8歳である。
のちに豊臣秀吉の五大老の一人となった戦国大名・小早川隆景の命により斬首された。

三村勝法師丸 雷 決定

    夢の世に 幻の身の生れ来て
          露に宿かる宵の雷(いかづち)

私は夢のようなこの世に幻のような肉体を得て生まれ、宿となる露に身を潜めて生きている宵の雷なのだ

勝法師丸は、備中松山城主・三村元親の息子だった(元親は養父であり、実父は後奈良天皇だという説もある)。
1574年、父親の三村元親は、毛利氏が毛利元就の3男・小早川隆景を介して彼の父(勝法師丸の祖父)を暗殺した宿敵・宇喜多直家と結んだことに怒り、反対して傘下にあった毛利氏から離反した。
そして宇喜多家と敵対する織田信長に内通し、浦上宗景や三浦貞広らと手を組んだのである。

しかし、毛利氏は三村元親の行動を許さなかった。
1574年、小早川隆景を総大将として毛利氏が備中侵攻を進めたのが「備中兵乱」である。
元親は備中松山城を要塞化して守りを固めたが、毛利軍により周辺の城から切り崩されていき、孤立無援となってついに城は陥落した。
そして勝法師丸の父・元親は切腹してしまった。

息子の勝法師丸は、元親の家臣に連れられて逃亡していたところを捕まり、その処遇について小早川隆景が裁断することとなった。

勝法師丸は聡明な少年だった。
まだ元服もしていない幼い少年なのだから助命せよ、との声もあったが隆景は、勝法師丸を許さなかった。
少年があまりに優れていることを見抜いてしまったからだという。

刑の執行を勝法師丸に伝えると、少年はさらさらと扇に上記の辞世を書き付けた。

「勝法師丸は自身の高い能力を隠し、露に潜むようにして生き延びたならば、いつの日か復讐の雷(いかづち)となって毛利家に仇となる」

辞世の歌からはそんなことも想像される。

自分の刑死に直面しても、含みを持たせた冷静な辞世をしたためることのできる、恐るべし8歳。
毛利・宇喜多方にしてみれば、彼の能力を見抜いていた小早川隆景の非情な判断を称賛すべきなのかもしれない。

斬首の後、誰もがその幼い首をまともに見ることができなかったという。
現在、三村勝法師丸の墓所は、岡山県高梁市の頼久寺にある父・三村元親の墓の隣にある。