見出し画像

龍造寺隆信 最期の言葉 戦国百人一首⑪

「肥前の熊」との異名をとった龍造寺隆信(1529-1584)は、武勇に秀でた武将だったが、非情だった。
家中のいざこざで命を狙われ逃亡し、2度も世話になった柳河城のの恩人・蒲池鎮漣を謀殺して、残った彼の一族をも皆殺しにした男である。
九州で勢力を拡大していた薩摩の島津氏の傘下に入ろうとする者を許してはおけなかった。

龍造寺


            紅炉上 一点の雪  

紅炉の上に置いた雪がすぐに溶けてしまうように、煩悩もすっかり消え去ってしまった  


彼は最期に禅の言葉を引用した。
もともと隆信は出家していたのだが、当主としての素質を認められて還俗したという経緯がある。

戦国武将というものは、自分がまさに死ぬという直前に、場に則した的確な言葉をこうも咄嗟に言わなければならないものなのか。
いくら自分のオリジナルの辞世ではないにしても、普段からその覚悟のない者には難しそうだ。

1584年、肥前の島原にて沖田畷(おきたなわて)の戦いが勃発した。
肥前の島原の有馬晴信が、龍造寺家から離反して島津家に通じたからである。
怒った龍造寺隆信は有馬家討伐に島原へ向かい、一方の有馬晴信は島津家に援軍を要請した。

龍造寺軍対島津・有馬の連合軍との戦いである。
龍造寺軍の兵は2万5千。一方、島津・有馬連合軍は6千。
兵力で龍造寺が大きく勝ったため、驕りがなかったといえば嘘になるだろう。龍造寺隆信はこの戦で討死したのである。

「畷」というのは、あぜ道といった細い道のことである。
沖田畷は通行できる道が限られた湿地の多い土地であった。
島津軍が、龍造寺の大軍が大軍の利点を生かすことのできないロケーションを選んだのだ。
島津軍はわざと退却した。

龍造寺軍は追撃しようとして沼地に挟まれた細い道におびき寄せられた。
そこを攻撃された龍造寺軍は、沼に挟まれた細い道の中で攻撃されて先に進めない先陣と、加勢しようとした次の陣でもみくちゃになり、大混乱となった。
島津の「釣り野伏せ戦法」が成功したのだ。
前線部隊は後退できず、後続部隊が前へ進もうとする中、軍は沼深い田んぼにはまり込んだところを射殺されていったのである。
龍造寺軍の別部隊も、連合軍の船からの砲撃で敗走した。

龍造寺隆信も、島津氏の家臣・川上忠堅(かわかみただかた)に見つかった。

死の直前、隆信は川上忠堅に問うた。
「お前は大将の首を取る作法を知っているのか」
すると川上は、
「この剣で命をおとす寸前だが、どんな気分だ?」
と逆に問い返した。
それに対する隆信の答えが
「紅炉上 一点の雪」
だったのである。

自分が非情な男だっただけに、死に直面する覚悟もできていたのか(実は、彼にはもっと情けない死に方だったという話しも伝わっているが、今回はそのことには触れないでおく)。

こうして1584年沖田畷の合戦は、兵力で劣っていたはずの島津・有馬連合軍が勝利した。