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息をするように本を読む45 〜井上靖「楊貴妃伝」「淀どの日記」〜


 井上靖氏は「楼蘭」「敦煌」などの西域物、「しろばんば」「あすなろ物語」などの自伝的な小説がよく知られているが、歴史物も多く書かれている。
 全体に淡々と静かに進み、登場人物の心理描写もどちらかと言えばあっさりしているためか、あまり評価しない人もおられるみたいだが、私は井上氏の書かれた歴史小説はとても美しいと思う。

 その中でもこの2冊は、どちらも女性が主人公の歴史小説で私の大好きな小説である。

 かたや、中国きっての傾国の美女と謳われる楊貴妃。
 もう一方は、豊臣秀吉の側室にして秀頼の母、茶々(淀どの)。

 どちらも一度は権力に一番近い場所にいて、その後、非業の死を遂げることになる。


 楊貴妃は中国は唐代の玄宗皇帝の愛妃である。
 楊貴妃の出自は、はっきりわかっていない。蜀(今の四川省あたり)の出身ではないかと言われている。
 
 楊貴妃の名は、玉環という。
 ごく幼い頃に父を亡くし、一家離散した後、引き取られた先が楊という家だったらしい。
 貴妃は、後宮の女性の位の称号で皇后に次ぐ地位だ。

 四川は中国の中央西南部で、日本で言うと奄美大島と同じくらいの緯度に位置し、温帯モンスーン気候で湿度が高く夏は暑く、冬は暖かい。
 ここの出身と言われる楊玉環は、香辛料や水っぽい果物を好み、豊満な身体つきと大きな蠱惑的な目が特徴的な典型的南国風の美貌を持っていた。
 この美貌によって、唐の皇子寿王の妃となる幸運に恵まれたのだ。
 
 そう、玉環は元々は寿王の妃だった。
 寿王は、玄宗皇帝とその愛妃、武恵妃との間に生まれた皇子だ。武恵妃はその才気と美貌で玄宗の寵愛を独占し、その卓越した政治力で次々にライバルを蹴落とした。もう少しで皇后に並び追い抜き、我が子寿王を皇太子に据える、一歩手前で病で薨去した。
 寿王はたちまち力を失い、玄宗の気持ちも寿王から離れた。
 どういうきっかけかはわからないが、玄宗はどこかで玉環を見る機会があり、寿王を魅了したその南国風の美貌は、玄宗の心をも捉えたのだ。
 寿王は、父からその寵だけでなく、愛妃まで奪われたのだった。

 
 茶々(淀どの)は、近江の名家浅井家の当主長政と織田信長の妹で戦国時代一の美女と称されるお市の方との間に生まれた3姉妹の長女。
 生まれ育った琵琶湖畔の小谷城は、叔父信長の指揮の下、秀吉に攻め落とされ、父長政、兄と幼い弟は命を落とす。
 茶々は母お市の方と妹2人と共に城から逃れ、生家を滅ぼした叔父信長の庇護を受ける。
 本能寺の変の後、3姉妹を連れてお市の方が再嫁した柴田勝家も、信長亡き後の秀吉との勢力争いに敗れ、北ノ庄の城は落城。義父の勝家、母お市の方は自尽した。
 生まれて2度目に経験する落城で、まだ少女とも言える年齢の妹達と3人、茶々は戦国時代の世に放り出されたのだ。

 その後、茶々が父、兄、弟、母、義父を殺した仇敵、秀吉の側室となったことはよく知られている。
 

 この2人の女性、時代も国も生れ育ちも全く違う。
 なのに、何となく共通点があるように思われてならない。 

 楊玉環は、晩年の玄宗皇帝の寵を一身に集め、その一族(血縁ではなく、玉環の後ろ盾になるよう、高力士という宦官が用意した縁組による閨閥)は贅沢な暮らしと権力を欲しいままににしていた。(俗に言う、やりたい放題)
 玄宗は玉環の機嫌をとることに汲々とし、彼女の1回の食事に掛かる費用は市井の家庭の年間食費ほどもあったと言われている。

 茶々は秀吉の嫡子を2人も生み、豊臣家に於ける自分の地位を確固たるものにした。
 秀吉の糟糠の妻である北政所を上回る権力を持ち、女ながらに淀の地に自分の城を築城し、そこで豊臣家の跡継ぎ秀頼の育児を自ら行った。
 茶々の下の妹、小督が最初の嫁ぎ先から無理矢理返されたのも、秀吉の甥秀次が秀吉の怒りをかって死に追い込まれたのも、全ては豊臣家の将来のため、嫡子秀頼のため(と、秀吉と茶々は思っていた)だった。


 時代(ルビ機能が使えれば、これには「とき」と付くのだろう)の権力者の寵といういつ変わるかわからない不安定なものによって、一時は国内で最も大きな力を握っていた女性2人。
 そのためか後世では、悪女、悍婦の謗りを逃れられない。

 しかし、それは彼女たちが自ら望んだものではない。
 彼女たちの運命は、歴史の大きなうねりとその時代の権力という巨大な力によって引き千切られ、捻じ曲げられた。
 彼女らの望むと望まないに関わらず。
 彼女たちは生きるためにその運命を受け入れ、そして、その中で生を全うしたのだ。

 それを誰が責められよう。
 いつかの大河ドラマの中で戦国時代の女性がある武士に、戦に出られぬ女に何が出来ると言われ、「女子(おなご)の戦は、生きることです」と言い放った言葉を思い出す。


 本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。

 歴史上の人物、といっても、本当に実在した人たちだ(当たり前だけど)。
 楊貴妃も淀どのも、かつてこの世に存在し、私たちと同じ空気を吸い、同じ空を眺めていた。
 
 それが何だか不思議でならない。
 
 

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