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息をするように本を読む22 〜山本周五郎「さぶ」〜


 私は時代小説が大好きだ。
 
 武士の美学や矜持を語る武家物もいいが、庶民の風俗や人情を描いた町人物もいい。

 私が最初に読んだ時代小説は、山本周五郎の「さぶ」だった。


 洒脱でありながらしっとりと、鮮やかでありながら余韻深く、淡々と語られる周五郎ワールドにすっかりはまって、そのあと山本作品の武家物、町人物、長編、短編、手当たり次第に読み漁った。

 この小説の主人公は、栄二という若者である。
 タイトルは「さぶ」だが、栄二の視点で物語は進む。

 舞台は江戸。
 栄二は芳古堂という表具を扱う大店で、幼い頃から奉公している子飼いの職人で、さぶはその同輩だ。
 さぶがおっとりした性格で、職人としてはちょっとどうかというぐらい動きが遅いというか鈍いというか、はっきり言ってしまうと愚鈍なのに対して、栄二は見た目も良くて勝ち気で目端もきく。

 さぶはいくつになっても表具に使う糊の仕込みばかりさせられているが、栄二は早くから先輩職人に得意先に連れていかれて、そこの大店の内儀や娘たちに気に入られ、20歳になる頃にはそれなりの仕事を任されるまでになっていた。

 さぶは、その要領の悪さから親方や兄貴分から叱責されるたびに、ぶっきらぼうながらも庇ったり励ましたりしてくれる栄二に感謝し頼り切りつつ、そんな自分を情けなく申し訳なく思っている。
 
 いつも、ともすれば残念な感じのさぶにくらべ、栄二は全てにおいて恵まれている。そして、栄二はそのことを自覚していない。若しくは、全て当たり前だと思っている。
 頼りないさぶを守護しているようで、どこか上から目線なのだ。

 何だかなあーと、もうひとつ主人公に感情移入というか肩入れの出来ないまま、2人が20歳になって間もなく、物語は急展開する。

 栄二が全く身に覚えのない、盗みの疑いをかけられるのだ。
 今まで恵まれていたぶん、栄二は一気に自暴自棄になり、助けてくれようとした人たちの言葉も聞かず、ちょっとした事件を起こして捕縛され、人足寄場に送られる。

 人足寄場とは、江戸時代の軽犯罪者専門の更生施設である。 
 
 当時、大都市江戸は人口が増大していた。
 飢饉などで生活が破綻して地方から逃れてきた農民もいるし、火事や水害などで家も身寄りも失って浮浪者になった者もいた。
 当然ながら、そういう者たちの中で犯罪が増える。

 行き場所も仕事もなくて生活に困窮したり、何か他の事情で軽微な罪を犯した者たちを集め、真っ当に生きていけるように訓練して手に職を付けさせ、世間を渡っていくのに必要な知識も与えて、少しでも罪を犯す者が減るようにと設立されたのがこの人足寄場なのだ。

 江戸時代にこういう考えや施設が既に存在していたことに驚いた。

 職場も信用もなくして、栄二はすっかりふてくされ、さぶを始め、気にかけてくれる人たちにも心を閉ざしてしまう。
 そして、毎日、ここ人足寄場で自分を陥れた(と彼が信じている)者たちへ復讐することばかり考えていた。

 やがてある事件がきっかけで、栄二は人足寄場の他の人間たちに関心を持つようになる。
 
 どうしてこの人がここにいるんだろう。この人が何をしたというのか。罪を犯したというが、ほんとうに悪いやつは他にいるではないか。

 この人たちはほんとうに悪人なのか。それはわからない。でも、こういう人間にとって娑婆で世間に合わせて暮らしていくのはさぞやつらいことだろう。彼らにとっては、娑婆こそが地獄なのだ。

 栄二は様々な人間を見、様々な話を聞き、今までの自分の世間(と自分で思っていたもの)がどれだけ狭かったか思い知ることになる。
 この理不尽と不条理だらけの広い世間にあって、自分がどれだけ恵まれていたか。それをどれだけ当たり前と思ってきたか。それにどれだけ甘えてきたか。そして今も。

 栄二やさぶが行きつけにしている飲み屋におのぶという苦労人の娘がいる。
 彼女が栄二に言うのだ。

「栄さんが、さぶちゃんの仕込んだ糊を使っていい仕事をしたとして、その仕上がりを褒める人はいても、糊を褒める人がどれだけいると思って?」
「人間が人間を養うなんて、とんでもない思い上がりだわ。…世間からあにいとか親方とかって、人にたてられていく者には、みんな幾人か幾十人かの人が、さぶちゃんみたいな人たちが、陰で力を貸してるのよ」

 このときの栄二はおのぶに、よくわかった、みたいなことを言う。
 でも、このときの栄二にはまだほんとうには分かっていなかった。
  
 ほんとうにわかるのは物語の最後、栄二の濡れ衣事件の真相が明らかになったとき。
 犯人が誰かというのはこの際どうでもいい。
 栄二は自分にとって、さぶがどういう存在だったのか、やっと理解するのだ。

 小説のタイトルがなぜ、「栄二」ではなく、「さぶ」なのか、私にもこのとき初めて得心がいった。


 本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。


 時を超え場所を超えて、そこで暮らしていた人たちの思いや生活を知ることが出来る、そんな時代小説との出会い、山本周五郎先生の作品との出会いに、深く感謝する。

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