書くことで人生を開きたくて泣いた日の話
いま、プライベートで、文章をがっつりと書き上げて、人にコメントをもらう・するという冒険をしている。いつもピカッとなにかが落ちてきて、そのまま一気に書き上げてしまうことから、毎回やりきっていると思っていた。
だから書き直しをしたことはなく、人とお互いにつけあうコメントが書き直すための道しるべになるなんて本当かなあと思っていた。書き直すって必要なの? 直すところなんてないと思う。そんな風に思っていた。自分のことながら、この ”上から目線” に嫌気がさす。
コメントし合う人たちはもちろん会ったことはない。でも、こういった冒険をしようと思うくらいの人たちである。
読むにつれ、書くことへの愛というのか情熱というのか、その丁寧な眼差しと言語への鋭い感覚、感度の高さに心からほっとした。大事なものが同じ、というのはとても大切なことだ。
ある夜。いきつけの焼き鳥屋さんでその日も食べたいものだけをたらふく食べ、日本酒をいただき、上機嫌で帰ってきた。
寝る前にでも・・・と軽い気持ちで、課題で出していた自分のエッセイ原稿を確認した。
そこには作家の小野美由紀さんからこんなコメントがついていた。
「夕日はよく、人生の終わりに例えられる。けど、私にとっては、お母さんの大好きなモノであり、決して「終わり」のメタファーではなく、ここから始まる美しい世界の入り口なのだ!
私はお母さんを愛している!」
……こんなメッセージを受け取りました。あきこさんが伝えたかったことは、これで合っていますか?笑
読んだ瞬間、わたしは思わずその場で崩れるかと思うほど、泣きに泣きに泣いた。
なぜなら、わたしよりもわたしらしく、わたしの言いたいことがそこにあったからだ。
なんでわかったんだろう、この書き方で。
なるべく、この本音が伝わらないように書いていたのに。
潜在的にそんな意図で書いていた自分に気づいてしまった。
さすがに言葉と物語に真摯に向き合っている人にはかなわない。わたしは降参した。そうしてオイオイと泣きながら、注意深く、あらためて一人一人メンバーのコメントを読み見直した。そして
「もっとここが知りたいです」とあるのを読むたび、また泣きに泣いた。
彼らのコメントが、わたしが本当に書きたいのは何かを指し示していた。
読む人が、知りたいと思うことは何かを明確に教えてくれていた。
できるだけわかりやすく、楽しく、思うがままに書いていると思っていたけれど。
それもある程度、できてはいるのだけれど。
改めて見つめていくと、わたしは大事なところを絶妙に飛ばすことで、わたしという表現をしているのだった。
一言でいうと、あまのじゃく。ねじれといった何か。
我ながら込み入っているなぁと思う。
それがわかって嬉しい。でも少しショック。でもやっぱり嬉しい。課題のエッセイは書き直したらここにアップするつもりだ。
自分一人では決してたどり着けなかった場所に、いま立っている。
こういった一連の流れは全て、からだからはじまるクリエイティブライティングの講座、金沢での時間から始まっている。
小野美由紀さんの繊細で温かみある眼差しと、仲間とともに書いては笑い合う時間は、「上手く書かなければ発表してはいけない」という、自分で勝手に作り出した夢から抜け出る体験そのものだった。
東京では毎回キャンセル待ちの人気のこの講座、5/27(日)初めて関西で開催される。京都駅から約25分。亀岡の美しい曹洞宗の禅寺で、午後からのスタートだ。
この講座は、決して小説家やエッセイストを目指す人だけのものではない。
本当の自分の気持ち、情熱ともどかしさ、
好きな理由も嫌いな理由も全部。
目には見えないけど、必ずいまこの瞬間、この胸やお腹で生き生きとしているもの。
そんな自分のありかを言葉に、文字にしたいと切望している人。自分らしくブログを生き生きと書きたい人。世界に表現をしたいと願う全ての人に価値のある、オールマイティな実践講座である。
「また次回」はないと思った方がいい。東京ならまだしも、関西、しかも京都での開催だ。気になる方・申し込みはここから。もし、わたしのように書くことが止まらなくなっても、責任はとれないのでご了承いただければ。
それでもいままでとは違う、新しい視界がひらくことだけは、保証する。
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