『銀河鉄道の父』を観て
映画『銀河鉄道の父』を観に行った。
『銀河鉄道の父』は、タイトルの通り宮沢賢治の父、宮沢政次郎が主人公の物語である。映画冒頭、政次郎が電車に乗っている。嬉しそうに取り出す電報には、「ヲトコウマレタ」の文字。生まれたばかりの息子に会うために急いで帰宅して、家族への挨拶もなしに部屋に駆け込む姿がこの作品の全てを表していた。政次郎はとにかく親バカなのだった。
政次郎は当時の一般的な父親と同じように、長男である賢治に家業の質屋を継がせようとする。しかし、質屋を非難してみたり、人造宝石の商売をやると言ってみたり、至って真面目に奔放な言動をし始める。そんな賢治に振り回されながらも、政次郎は父親として見守り続けるのである。
「永訣の朝」であまりにも有名な賢治の妹、トシも重要な役回りである。しっかり者の彼女は一家の希望のような存在だ。トシは賢治が進学を希望したとき、反対する父を説得する。お父さんは明治の新しい父親なのだから、と。政次郎はその言葉を真に受けて賢治の進学を許すのだが、そこから本当に「賢治の好きなようにさせてやろう、賢治が納得できるようにさせてやろう」というふうに徐々に変化していく。最終的に家業を継がせるのも諦めるのだから、当時としては異例だろうし、政次郎は「明治の新しい父親」そのものになったと言えるだろう。そんな政次郎の生き方は、彼が親バカだからそうなるのだが、当然葛藤も伴っていて、そこに人間らしさが出ている。そんな人間らしさが、彼をどこか近くに感じさせる。
まっすぐな妹の言葉を胸に兄は物語を書いた。父親はそんな息子の作品のいちばんのファンになった。そんな父親だから甘えられたし、身を委ねられたし、自由に生きられたのだろうけど、息子には父親の想いは伝わりきっていないのだ。どうして親子ってこうかなあ、という歯痒さがある。ラストシーンの政次郎の叫ぶような姿は圧巻で涙が止まらなかった。
全てのシーンに家族の想いが詰まっていて、苦しくも可笑しく、美しい作品であった。
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原作者の門井慶喜が好きでよく読んでいる。一時期、精神的に参ってしまっていた数ヶ月、門井慶喜と綿矢りさを交互に読むことしかできない日々を送ったこともあるくらいだ(なぜその組み合わせなのかは分からないけど、2人とも読みやすくておもしろいことは確かだ)。
数年前に直木賞を取った本作は、かなり前に読んだので正直あまり覚えていないが、感動し素晴らしいと思う一方で、賢治のあまりの奔放さに頭が追いつかなかったような記憶があり(たぶんその感覚は間違ってはいないが)、王道の感動ストーリーとは違った感触を覚えたような記憶がある。
今回の映画はそんな賢治に対し、それでもどこまでも息子を愛する父親の姿が丁寧に描かれていて、一家ともども愛しく思えるようになる作品だった。私は人の親ではないので想像しかできない部分もどうしてもあるが、親である人々にはもっと刺さるだろうと思う。私も歳を重ねたので、原作もまた感じ方が変わっているかもしれない。必ずもう一度読みたいと思う。
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