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退職の理由は【ショートショート】【#147】

 ――あ、退職の理由ですか?
 まあ聞かれますよね。その、一言でいえば「人間関係」ってやつです。あの……、というかちょっとホント聞いてもらっていいですか? 正直、あの会社にはもう二度と行きたくありません。

 配属されてすぐは、別になんの問題もありませんでした。いや、むしろいい感じの職場だなって思ったんです。名の知れてる大企業とかじゃありませんけど、うちからは近かったし、小ギレイだったし。
 一緒の部署の女の人……アキコさんっていう名前で、直属の上司になる人がいて、その人はいい人でした。もの静かで、ちょっと神経質そうで。楽しくおしゃべりができるってタイプじゃないですけど、必要以上にからんでこないし、職場の人間関係なんてそのくらいが一番いいってものですよね。
 仕事内容もそんなに難しくなかったです。まぁ日によって色々ですけど、毎日忙しいわけでもありません。残業もほとんどありませんでしたね。だから職場としてはこれは「当たり」だなって……最初は思ったんですよ。

 なんかおかしいなって思いはじめたのは、入ってから2週間くらいたってからだったと思います。うちの部署の女性は私と、アキコさんの2人だけしかいないんですけど、すぐ隣には別の部署があって、そっちに女の人がひとり居たんです。名前はスミコさんといいます。
 ひっつめ髪にほとんどいつもノーメイクで……。私服もなんていうかちょっとダサくて、印象としては「田舎くさいおばさん」って感じでした。確か40代のはずですけど、顔立ちもどことなく幼くて、田舎学生がそのまま年を取っちゃった、みたいな。まあ良くいるオツボネってやつなのかなって。そんな印象でしたし、あんまりからむことはないだろうなって思ったのを覚えてます。

 でもその日、出社したらスミコさんが私の机にフラっと近寄ってきたんです。なにかと思ったらいきなりケータイを見せられました。そこには写真が表示されていてアキコさんが写っていたんです。普通に事務作業か何かをしている写真で、隠しどり……というか、少なくとも「写真とるよ」とことわってとったような写真ではありませんでした。
 そして写真以上に驚いたのは、スミコさんが続けて言った言葉でした。

「ブスに写ってるでしょ?」

 急にこの人はなにを言っているんだろう? 一瞬頭は真っ白になりました。その時はまだアキコさんとスミコさんの関係性もよく知りません。もしかしたら、そうやってけなし合うことが、彼女たちの通常のコミュニケーションなのかもしれません。
 でもこういうときに否定をしても、肯定をしても後々いいことはない、ということは重々承知しているつもりです。だからその時もあえて直接回答するのはさけて言ったんです。

「あ、アキコさんですね。そういえばアキコさん、今日、有給でお休みなんですよねー。3連休にして、どこか旅行でも行ってるんですかねー? うらやましいですよね」

 するとスミコさんは望んでいた反応ではなかったのか、何も言わず、ぷいっと自分の席に戻っていってしまいました。私の返答が正解だったのかはわかりません。ただその時初めて、ちょっとこの人は変わっているんだな、という印象を持ちました。


 「ちょっと変わっている人」という、スミコさんに対する最初の印象はだんだん変わっていきます。アキコさんの反応を見ていたらわかってきたんです。
 アキコさんは徹底的にスミコさんを避けていました。違う部署なので、基本的にかかわることはありませんが、たまに伝えなければならないことがあったりすることもあります。そういうときアキコさんは必ずスミコさんのいないときを狙って、スミコさん以外の人に伝えていました。どうしても急ぎの用事のときは、私に伝言を頼みました。
 それだけじゃありません。朝、アキコさんは結構早めに会社に来るんです。始業は8時半で、うちの会社は結構ギリギリに来る人がほとんどなんですよ。私もそれで構わないって言われていました。でも、アキコさんは7時半くらいにはもう来てるんです。営業さんとかで早く来る人はいるので、フロアで見ればそれほど珍しくありませんけど、女子社員がそれほど早く来る必要ってないはずなんですよね。

 不思議だなぁって思っていたんですけど、あるとき気がついたんです。もしかしたら、更衣室でスミコさんと鉢合わせるのを避けてるんじゃないかって。さっき言ったように、アキコさんは、異常なまでにスミコさんを避けてました。だから更衣室とかの、人目の少ないところで鉢合わせるのを嫌がってるんじゃないかって。
 どうしても気になってきたので、あるとき私、ふたりだけになったタイミングでアキコさんに聞いてみたんです。

「アキコさん。――アキコさんって、その……スミコさんとなにかあったんですか?」

 そのときアキコさんはビクッと体を震わせました。その名前を聞くだけでも身の毛がよだつ、そんな空気が伝わってきました。

「悪いことは言わないから……あの人には、近づかない方がいいわよ。今にきっとわかるから……」

 アキコさんはスミコさんについてそれ以上、なにも教えてくれませんでした。

 さっきも言ったみたいに、私もスミコさんはちょっと変わった人だという印象はありました。でも、そんな名前を聞いただけで怖がられるほどの人なのだろうか、と疑問を感じていたのが正直なところです。というよりも、そのときはどちらかというとアキコさんの気にしすぎなんじゃないか……って思ったんです。
 アキコさんは結構神経質な人で、毎日のルーティーンの仕事などは、ほんとに判をおしたようにこなすんです。同じ手順で、同じタイミングで。どれもすごくちゃんとしていて、見習うべきだとは思うんですけど、それにしたってちょっと度を越しています。数字とかもすごい強いですし、ミスもほとんどなくって、尊敬できるところいっぱいあるんですけど、この人はその分、繊細で神経質なんだろうなぁって。
 スミコさんがそこまで変な人に見えなかったこともあって、アキコさんが気にしすぎなんじゃないかって思いがどんどん強まっていきました。それに、そう思っていたのは私だけじゃなかったみたいです。

 アキコさんはその日、お休みしていたか、どこかに少し出ていたのか……とにかくアキコさんが居ないときに、上司の女の人とアキコさんの話題になったんです。「あの人、神経質でしょ? 下で働くの大変じゃない?」そんな感じで話が始まったように思います。大変だと思ったことはなかったのはホントですし、「全然大丈夫ですよ。とても親切にしてもらっています」と答えました。しかしその後、上司が言ったことは驚くべきことでした。

「あの人ね、半分病気みたいなもんじゃないかと思うのよ。ほら……神経質って言ってもさ、いくらなんでもちょっと度が過ぎるでしょ?」上司は、顔を近づけ、声をひそめ続けます。

「それにね、ほら隣にスミコさんって人がいるでしょ。前にあの人とモメたことがあるのよ」

「え、本当ですか?」

「そうなのよ。なんかでもしょうもないことなのよ。朝、会社にきたらお弁当持ってきてる人は冷蔵庫に入れたりするでしょ? そのアキコさんのお弁当をね、『スミコさんがゆすったから中身がちょっとかたよってる』とか言いだしたのよ」

「スミコさんがやってるところを見たってことですか? というか、お弁当がかたよるって……。その、持ってくるときにちょっと揺れちゃったとかでもかたよりますよね」

「私ね、実際にそのお弁当見せてもらったんだけど、これがまた、すっごい微妙でね。確かに寄ってる、と言われれば寄っている感じなんだけど、それこそ来る途中にちょっと揺れたんじゃないのって感じ。それに、スミコさんがゆすってるのを直接見たわけでもないみたいなのよ。ただ、冷蔵庫って確かに使う人が限られるし、状況的に考えてスミコさんに間違いないって。アキコさんがそんなこと言い出して、結構オオゴトになったのよ」

 上司はケラケラと笑いながら話していましたけれど、私はそれを聞いて、とても笑えるような気分ではありませんでした。


 私はだんだん疑心暗鬼のようになっていきました。私からすれば、スミコさんもそれほど変な人じゃなかったですし、アキコさんも良い上司です。それなのに自分だけが知らないまま、壁を一枚はさんだ後ろ側で、なにかどす黒いものが轟音を立てて流れているのを垣間見てしまったような、そんな気持ち悪さを感じるようになってしまったのです。
 そして状況は悪いほうに変わっていきました。スミコさんの矛先が私にも向くようになってきたのです。

「ちょっと話があるんだけどいい?」

 スミコさんがそうやって、私に話しかけてきたのは、やはりアキコさんが居ない日のことでした。まわりには他に誰もいませんでした。

「あっはい……。もしかして私、なにかやらかしましたか?」

「いいえ。なにかっていうんじゃないんだけど……。そのトイレのことなんだけど」

「トイレ……ですか」

「ええそうなの。あなた、私と同じタイミングでトイレに行くでしょう? それが……ちょっと気になって」

「あ、時間かぶってました? それはすいませんでした。気をつけます! ――あれ? でも、……その、別にトイレで会ったりしてないですよね?」

「時間じゃないわよ。タイミングの話。私が例えば12時5分にトイレに立ったら、あなたも1時5分にトイレに立つ、とか。そういうタイミングの話よ」

 私はスミコさんの言っている意味がわからず、思わず聞きかえした。

「――え? ちょっと待ってください。その……同じ時間、とかじゃないってことですよね? 同じ……タイミング? ですか?」

「そうよ。タイミング。それ、気になるからやめてほしいの」

 正直、私には理解できませんでした。同じ時間にトイレに立ってしまって、タイミングを合わせて休憩しているように見えるから外聞が悪い、というならまだわかります。でも、同じ「タイミング」というのはいったい……。そんなこと意識したこともありませんでした。隣同士とはいえ距離もあるし、部署も違うのに、私がトイレに立つタイミングをいちいち見ていたということでしょうか。
 強気な人ならここで「スミコさんの考えすぎじゃないですか」とでも言って反論したかもしれません。でも、とてもじゃありませんけれど、私にはそんな芸当はできません。

「すみません。あの、今度から気をつけます……」

 私にできたのは、何の自信も納得もないまま、空手形を出して逃げ帰ってくることだけでした。スミコさんの、あの黒目がちで何も映していないかのような瞳が忘れられず、その日はなかなか眠ることができませんでした。


 その後、しばらくは目立った問題は起きませんでした。もちろん私が休んでいたときとか、見ていないところで何かが起こっていたとしてもわかりませんけれど、私の知るかぎりでは比較的平穏な日が続いていたと思います。
 相変わらずアキコさんは神経質でした。でもそういう性格だとわかってしまえばつきあいづらい人ではありません。
 スミコさんには正直どう対処していいものか、いい結論が出たわけではありませんでした。スミコさんのトイレの時間まで気にかけながら行動するなんていうことは、私にはできそうにありません。
 悩んだ挙句、折衷案でもないんですけれど、給湯室などで見かけたときは、なるべくこちらから声をかけ、「敵じゃありませんよ」というアピールをすることにしました。内心はビクビクですが、いきなりなんの心当たりもない場面でグサッと刺されるよりはずっとましです。気にさわったことがあれば、そういうタイミングで言ってくれるかもしれません。想定できるリスクは前もって下げておくに限りますよね。これも処世術のひとつです。
 効果のほどはよくわかりませんが、少なくとも面とむかって叱られるようなことはありませんでした。直属の上司だったら、この段階で耐えられなかったと思いますけれど、幸いにも直接的には関係のない人でしたから。

 そうやってしばらく平穏に過ごした日々は、今から思えば、嵐の前の静けさというものだったのかもしれません。


 その日、給湯室から怒鳴るような声が聞こえてきたのは、お昼休憩も終わりかけの時間帯でした。声の主は、アキコさんでした。
 私は反射的にスミコさんのデスクに目を向けます。――デスクには誰も居ませんでした。もちろんお手洗いとか、外に出たとか、いろんな選択肢があるのは間違いありません。でも「もしかして……」という思いがわきあがり、すぐに給湯室に向かいました。そして私が給湯室につくよりも先に、ドアが開き、うつむきかげんのアキコさんが足早に出てきたのです。

「なにかあったんですか?」私はアキコさんに聞きました。

「――なんでもない、ですから」

 アキコさんは泣きそうになっていました。どう見ても、なんでもないなんて雰囲気ではありません。そして、給湯室のドアがまたゆっくりとひらきます。出てきたのは、――やはりというべきか、スミコさんでした。こちらの様子をうかがうようにちらりと視線を向けてきましたが、そのまま何事もなかったかのように、自分のデスクに戻っていきます。でも私はそのとき、見てしまったんです。もどっていくときにスミコさん、ちょっと笑ったんです。ちょっとだけですけど、あれは絶対に笑っていました。
 もう、このときはなんというか、もう本当に怖かったです。背筋をこう、寒気がはしって、とにかくその場にも居たくなくて……。大丈夫と繰りかえすアキコさん連れだってトイレまで逃げてきました。

 アキコさんをトイレに連れてきた私は、改めてアキコさんになにがあったか聞きました。最初こそ、すこし悩んだようですが、結局のところアキコさんだって誰かに話したかったんだと思います。その両目からは大粒の涙が流れだし、同時に、せきを切ったようにスミコさんから受けていたいやがらせのことを話してくれました。

 アキコさんが一番最初にスミコさんにされたイヤがらせ……というか要求は、アキコさんが髪の毛がさわるクセが気になるからやめてくれ、というもの。もちろん特段の理由があるわけでもなく、なんとなく気になるからやめてほしい。そんなことを一方的に言われたんだそうです。
 アキコさんの髪は肩よりも少し下まであり、むすんでいるわけでもないので、作業するときなんかに、すこし髪に触るようなことは確かにあります。でもそんなのはべつに普通のことで、周りがとやかく言うような話ではありません。アキコさんももちろんそう思ったようで、「特に誰かに迷惑をかけているわけじゃありませんし、あなたにも別に関係ありませんよね」と言って、まともに取りあわなかったようです。
 でもどうやらその反応がスミコさんの琴線に触ってしまったようで、その日から本格的にイヤがらせがはじまったんです。

 最初は通りすがりにちょっとした悪口を言われる程度だったそうです。「相変わらず顔色悪いですね」とか、「またちょっと太りましたね」なんていう他愛もない……本当に取るに足らない内容だったようです。もちろんそれだけでも、十分いやなものですが、あまりにもくだらないと思い、最初はアキコさんは無視をしていたそうです。それで嫌がらせがやめばよかったのですが、現実はそう簡単にもいかず、むしろエスカレートしていったのでした。

 もともと部署も違う二人ですから、表立って仲間外れにしたり、無理やり仕事を回したり、なんてことはなかなかできません。それでも使っていた文房具がいつのまにかないとか、自分をおとしめるような噂が流されていたり、とにかく執拗に何度もそういったことが起こりました。最近では写真を勝手に取られたあげく、それをこちらに見せつけ、「今日もブスね」なんて言われて追い回されるのだとか。さっきの給湯室でも、あまりにもしつこいので思わず声をあげてしまったそうです。

 はっきり言って一つひとつは、なぜそんなことを……というような些細なものといってもよいと思います。でもどれも必ず他の人の目のないところ、もしくは誰だかわからないような形でおこなわれていました。まるで、邪気のない子供が、ただ楽しさだけのために追い回しているような……それでいて周到なしたたかさを持ち合わせているような。そんなアンバランスさがどうしても理解できず、恐怖するしかありませんでした。そりゃあアキコさんだって警戒するはずです。

「私、ちょっとスミコさんに言ってきます」

 お昼の時間がそろそろ終わるのはわかっていましたが、そのまま何食わぬ顔で午後の仕事をするなんてできそうにありませんでしたから。アキコさんはそんなことはしなくてもいい、ほっておけとくり返しますが、このままでは私の気がおさまりません。つかつかと歩みよると、デスクで呑気お茶を飲んでいたスミコさんに声をかけました。
 本来なら給湯室にでも来てもらったほうが良かったんでしょうけど、このときは頭に血がのぼってしまってそれどころじゃなかったんですよね。

「スミコさん、ちょっといいですか」

「何かありましたか?」スミコさんはまったく動じる様子もなく答えます。

「あの、――アキコさんに対するイヤがらせのことです! アキコさんがなにかしたっていうんですか? いや仮になにかあったとしても、ひどすぎます」

 そしてそんな私の詰問に対する返答は驚くべきものでした。

「……いやがらせ? なんですかそれは。私はなにもしていませんよ」

 ここまできてシラをきるなんて。つい今さっきアキコさんを給湯室で泣かせたばかりなのに。きょとんとした顔でいけしゃあしゃあと答えている姿に、私は腹がたってきました。

「あ、あなた……、ついさっきだって給湯室でアキコさんにいやがらせしてましたよね! 私、スミコさんが出てくるの見てましたから! シラを切るのもいい加減にしてください!」

 私のあまりの剣幕に驚いたのは、スミコさん……ではなく、むしろ周りの人でした。午後の始業時間ももう始まっています。慌ててまわりの人が集まって私をなだめ、今から考えれば本当に恥ずかしい話ですけど、羽交いじめみたいにされてスミコさんから引き離されました。

 そのまま私は面談室に連行……いや、連れていかれて上司が話を聞いてくれました。最初はなんというかもう、とにかく悔しくて……、上司に私の知ってることをいろいろ言ったんです。でもだんだん冷静になってきたら、やっぱり怖さも戻ってきました。だってあれだけのことをやっておいて、まったく慌てることもなく「なにもやっていない」なんて普通なら言うことができますか? つい今さっきの話ですよ? アキコさんは涙まで流しているのに。どう考えても普通じゃありません。
 私だってこれまでにイヤがらせを受けたこととかはありますけど、イヤがらせをする人は、ちゃんと「イヤがらせしてやろう」って思ってやってるものです。……いや、それがいいのかどうかはわかりませんけれど。だから、そこに一切なんの感情もないかのようにふるまったまま、人に危害を加えることができるなんて……。私にはその理解不能なところが怖かったんだと思います。

 そのあと、スミコさんやアキコさんも上司に話を聞かれたようですが、驚いたことに、ここでもスミコさんはなにも言わなかったらしいです。いえ、なにも……というか、終始「私はなにもしていない」と主張していたそうです。それに最後まで誰一人として、スミコさんの犯行を直接見た人がいないんです。イヤがらせをしたスミコさんと、それを受けたアキコさんという当事者しか存在せず、その主張が真っ向から食い違っているのです。
 結局、双方に話を聞いたところで水掛け論にしかならず、処罰もなにもできなかった。そんな結論を聞いたとき、もうこの会社にいることはできないなって……思いました。
 場所をわきまえず、騒ぎたててしまって恥ずかしかったという思いもありますけど、どちらかというとやっぱり怖かったんです。この職場にいたら、そのうちに私がスミコさんの標的にされるかもしれません。そしてきっと誰も味方になってくれないんだろうって。
 それが本当の気持ちでした。その日のうちに、もう辞めますっていって……正式にやめられたのは、そこから2週間くらいたってからでした。さすがに引き留められることもありませんでしたね。


 すいません。長々と話してしまって。次回、説明会にこの書類持ってくればいいんですね。あ、写真とマイナンバーが必要なんですね。わかりました。次のところはいい会社だといいなって思いますホント。まあ会社は選べても人は選べませんけど……。また相談するときはよろしくお願いします。

 そう言って、私はハローワークの相談ブースを出た。時間はまだ午前中の10時くらい。前に会社を辞めたときも一度来たことはあるけれど、何度来ても楽しい場所じゃない。建物も古いし、なんとなく空気がよどんでいる気がするのだ。だからこそ今日は朝いちでイヤなことは済ませてしまって、ぱーっと買い物でもして発散してくるつもりだ。まあでも長いこと無職でいることもできないし、はやく次の仕事を見つけないと。

 そんなことを考えながらハローワークを出たとき、目の前を知っている顔が通りがかった。スミコさんだった。その上、スミコさんは私を見かけると笑いながら声をかけてきた。

「あら、こんなところで会うなんて奇遇ですね。意外と近いところに住んでるんでしょうね」

「なんで、こんなところに……」私は内心大きく動揺していましたが、かろうじて平静を装いながらスミコさんに聞きかえした。

「なんでってそんな。ここをどこだと思っているのかしら。もちろん仕事を探しにきたに決まっているでしょう。そういえば、あなたは知りませんね。――私も先日辞めたんですよ、あの会社」

 あっけにとられてなにも言うことができない私をしり目に、スミコさんは続けた。

「私ね、本当になにも知らなかったんですよ。自分のしていることが嫌がらせなんて思ったこともなかったし、それがアキコさんにどう思われているかなんて、一度も考えたこともなかったんです。……だから、正直、面と向かってあなたに言われたときはとってもビックリしました。それに最初はショックをうけて、こうして会社も辞めてしまいました。でもね――、私、あなたにはとっても感謝しているんですよ。だって、そんなこと誰も教えてくれなかったんですから。それこそあなたには今度ちゃんとなにかのお礼をしなきゃいけないと思っていたところなんですよ。……いかがですか? よければこのあとお茶でも? それに、感謝の印になにかお送りしたいので、ご住所をお教えしていただいてもいいかしら?」

 スミコさんの笑顔はどこまでもすがすがしかった。私はまともな反応をはかえすこともできず、走ってその場から逃げ出すことしかできなかった。



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