見出し画像

腐った死体は電気羊の夢を見るか【小説】

「あぁ……彼女の方が早かったか」

 襲いくる彼女を見つめながら、僕はそう考えていた。抵抗することもなく、勢いのままに押し倒され、彼女は僕に馬乗りになる。窓から差し込む西日が彼女の赤黒い顔を映し出している。彼女の少し吊り上がった目の形が好きだった。今は赤く血走っていて、焦点が合っていないようだ。きっともう僕のことは『僕』だと認識できていない。
 彼女の細い腕のどこにそんな力があったのだろうか。肉がそげるほどの力で肩をつかまれる。皮膚が破れ、赤いものが染み出すのを感じる。そして次の瞬間、彼女の顔が目の前に広がり、固いものが僕の頭部にあたった。――歯だ。これが噛みつかれるという感覚か……。そんなどこか拍子抜けた思いが頭をよぎる。
 僕にはもはや痛覚は存在しない。彼女がいなくなった世界では、死に対する恐怖も存在しない。彼女に食べられれば、彼女とひとつになれる。僕を支配していたのは、そんな安堵の気持ちだけだった。


 ――事の始まりは、2カ月ほど前になる。ニュースによると、長野県に隕石が落下したのが10月2日。山奥だったこともあり、落下による死傷者は出なかったようだ。
 しかし安心したのもつかの間、すぐに事態は急変することになった。発端となったのある男性だ。夢遊病にかかったようにふらふらと歩いているのを目撃されていた。そのままゆっくり歩いて隣家に向かい、その家の女性に襲いかかったのが隕石が落下した翌日の10月3日のこと。
 大きな物音と叫び声がしたという通報を受け、警察が駆けつけたところ男性は完全に理性を失っており、女性を「食っていた」らしい。その場で男性を逮捕された。女性の生存は絶望的と思われたが、救急車両にて病院に搬送された。しかし、――救急車両が病院に到達することはなかった。
 当時の記録は残っていないけれど、その後、街におこったことから考えれば何がおきたかは想像はつく。彼女は搬送される途中でよみがえったのだ。そして救急隊員に襲いかかったのだ。そうやって襲われた隊員たちが死亡し、再びよみがえり、街に放たれた。そしてねずみ算式に『生ける屍』を生み出した。
 原因がその隕石なのかどうかは定かではない。しかし隕石の落下を契機にして、この街に『ゾンビ』が発生したのは間違いないようだった。

 その上、ゾンビになるのは噛まれた人だけではなかった。いわゆる「空気感染」をしているようだ、という情報が駆け巡ったのが、隕石の落下からわずかに3日ほど後のこと。ゾンビに噛まれたわけでも、傷をつけられたわけでもない。ただじっと室内に隠れていた人々でも、ある時、急に苦痛を訴え、そのまま死亡にいたる。そして、数時間後にはゾンビになって甦る、というケースが散見された。
 細かな粒子なのか、空気中を漂うウイルスなのか……原因もわからなければ、対処法もわからない。それでも生きたまま噛みつかれて、脳みそを吸い出されるれよりは、部屋にじっとこもってゾンビになるのを待つ方がずっといい。人々はそう判断し、街に出るものは誰もいなくなった。街をゆらゆらとうごめくのはゾンビだけ。大半の人々は、ただじっと、訪れる運命を受け入れることを選んだのだ。

 そんな中、僕と彼女が「感染」したと思われるのは10月21日のことだ。正確には、同棲するこの家で、二人してテレビから流れる有様に恐怖していた際に、唐突に気分が悪くなった。体中に杭を刺されるような激しい苦痛があったのち、意識が途絶えたのが10月21日のこと。――その後、数日たって意識が回復し、こうしてまた動いているのだから、「死んだ」とは言えないかもしれない。でも僕も彼女も、体は冷たく、心臓がまったく動いていないのは確かだった。

 そうやって、何の前触れもなく僕と彼女はゾンビになった。

 僕らの状態は、丁度、僕と彼女がゾンビになったその時ニュースでやっていたように、意識を失い、まさに「生きる屍」のように、本能に従い人に襲いかかるという姿からは程遠かった。しかし彼らと同じく「脳みそを食べたい」という欲求自体は、しっかり植え付けられているようだった。それは決して大きな欲求ではない。でも口の奥底が、ずっと、少しだけかゆい。そんな感覚に近い。この程度の欲求であるなら、僕が人に襲いかかることはないだろう。彼女の感じる欲求も、同じくらいだと言っていた。人によって違いがあるのかも知れない。

 幸いにも僕らは2人だ。ゾンビから隠れ、生活できる場所もある。食欲はいつの間にか無くなったから外に出る必要もない。外に出なければ、無用な争いに巻き込まれる心配もなかった。
 ニュースで見る限り、この町はほぼゾンビにのっとられてるようだけれど、日本中が大混乱というわけでもないようだ。テレビは普通に放送していたし、サブスクのおかげで映画や音楽はいくらでもあった。今更仕事の心配などしなくてもいいだろう。最愛の人と、何の気兼ねも無く一日中映画を見て、感想を語りあう。外の喧騒をよそに、この部屋の中だけは平穏を絵にかいたようだった。

 でも11月に入ったあたりで僕は気がついてしまった。……総じて、感覚が鈍くなっている。それも徐々に、少しずつ進行している。
 何処かを触ったときの感覚、口に含んだときの味覚、そして物事に対する判断力。そういったものが日に日に鈍くなっていくのだ。それは、体全体に薄い半透明のフィルターを1枚、また1枚と被されるようで、いつかは何も感じなくなり、考えることもできなくなるのだろう、ということは想像に難くなかった。

 鈍化の原因はすぐにわかった。アンモニアの匂いが如実にそれを伝えてくれた。僕たちは、――腐ってきているのだ。気温の低いこの地方、この時期とはいえ、特別なにかの処理を施された常温の生肉が、それほど長い期間、腐らずにもつわけがない。おそらく脳みそまで腐ってしまい、自我がなくなったゾンビから、本能に従い人を襲いだすのだろう。
 噛まれるなどして損傷のあった死体ほど早くゾンビ化すると考えると、外にはびこるゾンビと、僕たちとの違いにも合点がいった。特段の損傷を受けゾンビになったわけではない僕たちのような個体は、こうして徐々にゾンビ化が進行するのだろう。

 ここにきてゾンビのことにひとつ詳しくなった。
 でも、行き着くところはきっと変わらない。


「完全にゾンビになっちゃったら、あなたのことを襲うのかしら」

「その時に、まだ僕が完全にゾンビじゃなかったら、きっとね。ゾンビ同士は共食いしないみたいだから」

「……そう」

「苦しいかな」

「いや、きっと苦しくないよ。もうほとんど感覚はないし。むしろ僕が先に君を襲ったらごめん」

「……うん。それはちょっと怖い。でもいいよ。食べられるのがあなたなら。優しくしてね」

「うん。わかった。出来るだけ」

彼女の目はうつろになっている。映っている画面は、どの程度見えているのだろう。

「脳みそ、美味しいのかな」

「どうなんだろうね。僕もまだ食べたことはないし。食べる頃には美味しいとか考えることも出来ないんだろうね」

「意識のあるうちに一度くらい食べておくべきだったかな……」

「お嬢さん、不謹慎ですよ」

「ふふふ、ゾンビですから」


 テレビによると今日は11月22日。被害は拡大の一途をたどっているようだった。当初、この町を封鎖し、被害を食い止めようとした。しかし対応自体が致命的に遅く、すでに他の町にまでゾンビの侵入を許していたせいで、封鎖は失敗に終わったようだ。
 隕石から離れた場所では、僕たちがなったように、前触れなく空気感染するようなことはないようだけれど、人間以外の動物などもゾンビ化しており対応の難しさがあるようだ。そんな外の世界のことは、もはや僕らにはまったく関係がない。

 僕たちは、ぽつりぽつりと、ゆっくりと、でもずっと会話を続ける。僕自身、腐敗が進んでいるから、彼女の状況は良くわかる。意識がどんどん薄れ、猛烈な眠気に抗っているのに似ている。眠気に負けて、意識を手放したとき。その時がきっと本当の「ゾンビ」になるときなのだ。話していないと不安なのだ。

「今年は一緒に、クリスマスを祝えるかな」

「どうだろう……」

「同棲とか言わずに、早く結婚しておけばよかったね」

「どうだろう……」

「そこは肯定しといてよ」

「そうだね」

「もう」


 僕たちはゾンビになってからも、しばらくは『眠り』についた。眠くなるから寝るというわけではなく、夜が更けてきたらベットに入る。そうやって、生きていたころの習慣を忘れたくなかっただけなのかもしれない。実際、意識が全くなくならないまま朝を迎えることも珍しくなかった。それでも、ごくまれにだけれど、僕は夢を見た。
 大抵は悪夢だ。ゾンビに襲われて食べられる夢や、僕自身が誰かに襲いかかる夢。相手は見知らぬ誰かであったこともあるし、彼女であったこともある。どちらにしても後味の良い物ではなかった。
 でもそういう悪い夢だけじゃなくて、彼女との楽しかった思い出が出てくることもあった。多分、僕はクリスマスまで正気を保っていることはできないだろう。それどころか、次の瞬間にはもう人間ではないかもしれない。だから人間としての体が最後の力を振りしぼって、脳にたまっていた記憶を、……楽しかった彼女との大切な記憶を、僕に見せてくれているのかもしれない。これはいわゆる『走馬灯』なのだろう。――僕がいつ死んでもいいように。
 彼女との夢を見れた日は、このまま目が覚めなければいいのに、と思いながら僕はゆっくりと目を開ける。


 僕の人生に後悔がまったく無いといえば嘘になる。それでもこの2ヶ月間、彼女と、この部屋ですごした時間は、これまでの人生で最も心休まる時間だった。というよりも、人間として生きていくこと自体が何かに追いやられることの連続で、ストレスにあふれ過ぎていたのかもしれない。……まあ、もう戻ることのない過去の話だ。
 こんな穏やかな時間を得ることができたのは、ゾンビになったおかげといってもいいだろう。誰に感謝したらよいかはわからないけれど、少なくとも彼女には感謝しなければいけないだろう。

「ありがとね」

「うん?」

「いや二人で一緒にいられて、良かったなって」

「そうでしょ……」

 彼女は薄く笑った。いや笑った気がした。顔の筋肉はほとんど機能していないようだ。うつむいた彼女からは、それ以上の言葉はつむがれなかった。

 つけっぱなしのテレビからは、流行の音楽が流れていた。



#小説 #掌編小説 #ゾンビ #ショートショート #恋愛 #恋愛小説 #ディストピア

「欲しいものリスト」に眠っている本を買いたいです!(*´ω`*)