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500日におよぶ真夏の怪談ストーリー

 秋も終わりがけのその日。

 日が落ちてからはもうだいぶたっていた。駅のホームにいる人影はまばらで、いっそう人気のない場所を探して「少し奥の方に行こう」と彼女をうながす。
 精一杯のさりげなさを装って他愛ない会話を続けていたつもりだけれど、緊張の系が今にも切れそうなほど張りつめた僕にそんな芸当かできていたとは思えない。そんななか、残った勇気をふりしぼって僕は本題を切りだした。

「僕と付きあってください」

 対する彼女の答えはこうだ。

「え、え、ごめん。いや、ぜんぜんそんなつもりなかったんだけど。……え? ていうかなんで私? なんか勘違いさせちゃった? いやなんかごめん、そういうんじゃないってゆうか。――そもそも私、この前、彼氏できたところだし……」

 ――このエピソードがフィクションかどうかは読者の判断にゆだねようと思う。別に彼女にたいして恨みつらみとかをここで述べるつもりはない。そもそも恨みつらみを言えるような立場にないし。ただ好きになって、ただフラれただけ。言葉にすればそれだけの話だ。
 それでも一つだけ教訓めいたものを申しあげるとすればこうなる。

「非モテの男にとって、愛想がいい女の子ほど怖いものはない」


 どの映画だとは言わないけれど、同じように愛想のいい女の子に振り回された男の話を見ていて、そんな若かりし頃の思い出にひたってしまった。基本的にかわいくて愛想のいい女の子というのは、誰にでも愛想がいい。あたりまえだ。
 しかし悲しいかな。非モテ男子からすれば、自分にだけ微笑んでくれると勘違いしてしまう。そういうかなしい生き物なのだ。

 今日も俺に笑ってくれた。もしかして俺の好きなんじゃないか。

 冷静になれ。お前を好きになる要素などどこにもない。その子は誰にでも愛想がいいだけだ。経験をつめばわかってくるし、誰かひとりに固執しなくとも、ダメなら次があるから……と割り切ることもうまくなる。でも若い子に向かって経験がないからダメなんだよ、と言い放つことになんの意味があるだろうか。「18歳未満お断りだから大きくなったらまた来てね~」と言われたら、むしろ闘志を燃やすというものだろう。

 結果、少年は無駄に大きくなった自我をふりまわし、可愛くて愛想がよくて、自分にまったく気のない女の子にぶち当たって人生のほろ苦さを知るのだ。――「愛想のいい女の子」というトラウマを植えつけられながら。


 その上、一度上手くいったと思わせておいてあとから「やっぱり違ったわ」なんて感じで、いいようにあしらわれてしまった日にはしばらく立ち直れないこと間違いなしだ。
「ある朝目覚めて気がついたの。あなたとは無理だって」。そんなことある? いやもちろんフィクションと現実を混同してはいけないと思うけれど、この映画人気作なんだから、世の中の多くの人は多かれ少なかれ「あーそういうこともあるよね」と思っているということだろう。

 互いにすれ違った結果、やっぱり無理かもというなら納得がいく。でも片方の気持ちは好きなまま変わっていない状態で、具体的なイベントも、明確な理由もない状態で別れを切りだされた日には、そりゃあ怒鳴りたくなっても仕方がない。
 しかもそのあとキープされそうになった日にはもはや恐怖さえ感じる。というか普通に怖い。それこそ500日くらい引きずるかもしれない夏の怪談だ。

 そういう意味では告白した段階であっさり切り捨ててくれるのはまだ優しいのかもしれない。切り捨てゴメンだ。いやそれは多分違うけど。


 自分が好きだった作品が評価されるのは嬉しい。
 でも自分が好きじゃなかった作品が評価されているのはいつなんどきでも微妙な気持ちになる。私が間違っているのか、世間が間違っているのか。別にそんなたいそうな話ではないのは重々承知しているけれど、そんなサイコパス(なりかけ)みたいな心境におちいったりする。

 その上、それが自分の古傷に岩塩を塗りこまれるような映画だったりすると、「世の中、結局カワイイは正義なのね……」とかいう、ひねた結論に到達したりすることもある。長年、オタクで非モテで生きてきた男のねじ曲がった情操観念をなめてはいけないのだ。

 もはやなにを言いたいのかもよくわからなくなってきたけれど、もしなっちゃんのことを擁護したい人がいたらそっと教えてください。「このクサレ非モテめ!」みたいになじるのはどうかやめてくだされ。



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