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目的がなにか

自分の存在や
自分の働きや
自分の活動を通じて、

他の誰かや
社会に貢献したい。

他の誰かの役に立っている
ということを体感したいし、

他の誰かに感謝されると嬉しい。

それだけで、
また明日も頑張れるし
内側からエネルギーが湧いてくる。

多くの人が、
そう思うんじゃないかな。

たしかに、
ぼくもそう感じることはあるし、

「ありがとう」って言われると嬉しいし、

自分の働きが認められると
そりゃあ嬉しいに決まっている。

でも、
この周囲の「反応」ってのは、
あくまで結果であって

「それありき」ではないんだな。

それよりも、

「今、自分がやりたいと思ったこと」や

「今、自分が発信したいと思ったこと」や

「今、自分が行きたいと思ったところ」や

「今、自分が選びたいと思ったもの」や

そういう、
「自分が思ったこと」を
ちゃんと自分にさせてやりたい。

そういう思いの方が今は強いかな。

周囲の反応というのは、
どっちかっていうと「おまけ」
みたいなもので

自分が思ったことをし続けた
「結果」でしかないわけだ。

どんなに自分が思いを込めてやっても、
誰にも感謝されないことだってあるし

どんなに自分がいい加減にやっても、
沢山の人に感謝されることだってある。

周囲の反応(結果)にフォーカスをあて、
「それありき」で動き出すと

気がつくと自分の活動目的が
「他人の期待を満たすこと」になっていく。

自分の人生の土台に、
「他人の期待」をおくと

どんどん
どんどん
進む方向が変わってくる。

そして、
自分で自分の人生の舵取りが
できなくなっていく。

「ああ、どうやったら喜ばれるかな」

「ああ、どうやったら感謝されるかな」

このくらいなら、
まだ大きな支障はでないかもしれない。

でもそのうちに、

「ああ、どうやったら自分が認められるかな」

「ああ、どうやったら自分のこと見てくれるかな」

という風に、
いかにして他人に
自分という存在を認めさせるか?

こんなことばかり考える自分がでてくる。

「自分が思ったことをやった」
その結果として、

喜ばれた
感謝された
認められた

というのと。

「誰かに認めてもらうためにやった」
その結果として、

喜ばれた
感謝された
認められた

では、似て非なるもの。

前者は、
「結果」に左右されない。

感謝されたり
認められたたら、

「ラッキー」
「ありがたい」だし

感謝されなくても
認められなくても、

「ま、そういうこともあるわな」

で終わる。

だって目的が、
「自分が思ったことを、ちゃんと自分にさせてやりたい」

だから。

でも、
後者はそうはいかない。

「結果」に左右されまくる。

というか、
「結果」しか見ていない。

感謝されたり
認められたたら、

「ああ、よかった」

と一安心するけど、

感謝されなかったり、
認められないと、

「自分のなにがダメだったのか?」
「自分のどこが悪かったのか?」

こうやって、
「感謝されない、認められない自分」を
どんどん責めるようになる。

だって目的が、
「誰かに認めてもらうために、それをやる」

だから。

自分の存在や
自分の働きや
自分の活動を通じて、

他の誰かや
社会に貢献したい。

他の誰かの役に立っている
ということを体感したいし、

他の誰かに感謝されると嬉しい。

それだけで、
また明日も頑張れるし
内側からエネルギーが湧いてくる。

でも、
周囲の反応(結果)にフォーカスをあて、
「それありき」で動き出すと

気がつくと自分の活動目的が
「他人の期待を満たすこと」になっていく。

自分の人生の土台に、
「他人の期待」をおくと

どんどん
どんどん
進む方向が変わってくる。

そして、
自分で自分の人生の舵取りが
できなくなっていく。





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