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「グエムル」の側から世界をみる――『グエムルー漢江の怪物ー』(2)

前回に引き続き、ポン・ジュノ監督の『グエムルー漢江の怪物ー』をとりあげます。

劇中では、在韓米軍龍山基地から漢江に垂れ流された有毒物質(ホルムアルデヒド)により、異常進化を遂げた生物(グエムル)が登場する。この生物に娘(パク・ヒョンソ)を誘拐された家族(カンドゥ一家)が、娘救出作戦に乗り出す。

ここで気になるのが、「グエムル」の生態である。劇中には、「グエムル」は一体だけしか登場しない。食性は、体内から人間のものと思われる骨を吐き出すことから、肉食であると考えられる。次に、巣(寝ぐら)はどうだろうか。誘拐された娘が連れてこられた地下道が、それにあたる。怪物はそこに獲物を運んだり、目を閉じ身体を休める場面も描かれていた。

「巣のイメージに人間的価値付与を行うことほどばかげたことはない。巣は鳥にとってはたしかに温かい心地よい住まいである。それは生の家であり、卵からうまれでた鳥をいだきつづける。卵からうまれでる鳥にとって、裸の皮膚に羽毛がはえでるまでは、巣は外側の羽毛にほかならない。しかしこのように貧弱な事物を人間的なイメージ、つまり人間のためのイメージにかえるとはなんとせっかちなことだ。恋人たちが期待するしっかりと閉じた温かい「巣」と木の葉のかげにかくれたほんとうの巣を実際に比較したら、このイメージの滑稽さが感じとれるだろう。」(『空間の詩学』ちくま学芸文庫、P.175)

引用したのは、フランスの哲学者、ガストン・バシュラールの「巣」のイメージに関する考察である。
バシュラールが指摘するように、巣(ねぐら)に対して、「家族団欒の場」としての暖かさを感じるのが人間の偏見だとして、その偏見をあえて尊重するなら、怪物の「巣」には正反対の雰囲気がつきまとっている。それは、寒さ、静けさ、死である。
貧しいながらも強く結びついている主人公の家族たちとは対照的に、「グエムル」には自身の生活を共有できる家族は存在しない。

「グエムル」の目線から物語を見てみると、そこには孤独な生物の環世界(1)が横たわる。直接我々に抗してこないだけで、日々人間によって生活を脅かされている生き物たちが存在することを、『グエムルー漢江の怪物ー』は暗に突きつけてもいる。

【注】
(1)「環世界」とは、生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した概念。すべての生物には、各々固有の知覚世界があり、その中で生を営んでいることを指摘した用語である。詳しくは、『生物から見た世界』(岩波書店)を参照されたい。

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