「イケてない」ってなんだろう?
久々に、大学の友達の家に遊びに行った。
感染症禍なので、とても罪悪感はあったのだが、「そんなこと気にしてたら、なにもできなくなっちゃうよ」という友人の説得に負けた。
自宅が本に占領されている私とは違い、友人の家には三段の本棚が二つあるばかり。並んでいる本も、新書や人文書は一冊もなくて、映画のパンフレットや美術展のガイドブック、写真集などが置いてある。
本棚に並ぶ本を、ちらちらと覗いていたら、友人の趣味から言うと意外な(?)本があることに気づき、思わず声をあげてしまった。
「へー、○○ってスパイダーマン好きなんだ。」
目にとまった本というのは、講談社から刊行されている『図解 スパイダーマン ストーリー』。当然、初めて目にする本だった。
「ああ、その本。おもしろそうだったから、衝動買いしたんだよね。結局、読んでないけど。」
許可を取り、手に取って読んでみると、「スパイダーマンが持ち上げられる重量は10トン」「強いストレス状態では、20トンまで持ち上げることができる!」(P.9)といったマニアックな情報が満載な一冊だった。
「せっかくだからさ。スパイダーマンの映画でも見る?」
とくに断る理由もなく、とくにすることも決まっていなかった私は、「いいんじゃない」と返事をし、映画を見ることになった。
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容貌が平均より整った俳優が「イケてない人間」を演じるとき、妙に引っかかりを覚えるのは私だけだろうか。
「ここに映画の限界がある」と言ってしまえば元も子もないわけだが、映画には興行の一面があるわけだから、実際に「イケてない人間」に「イケてない人間」を演じさせても、観客を呼び込むことはできないだろう。そもそもそんなことをすれば、俳優の存在自体を否定することにも繋がってしまう。
今回、『スパイダーマン』(サム・ライミ監督作品)を友人と見たとき、「イケてない学生」として登場する主人公ピーター・パーカーに違和感を覚えたことは否定できない。行動がおどおどしていて、女性に声をかける勇気がない。同級生にはいじられ、好きな女性も彼女にされてしまっている。たしかに要素をとりだせば、「イケてない学生」そのものなのだが、どうもここに作り物感を覚えてしまうのである。
それは私にとっての「イケてない学生」というものが、何ら取り出せる要素がない、つまり特徴がない人間として捉えられているからだろう。
『スパイダーマン』は、エンターテインメントとしては申し分のない作品である。ただ、地味な学生として描かれているピーター・パーカーが、「スパイダーマン」として特殊な能力を獲得する以前から、有名な科学者に評価されるほどの才能を持ち併せている事実は無視できない。
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上記の感想を友人に話したら、「純粋に楽しんで見ようよ」と言われてしまった。
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『スパイダーマン』は非常に都市的な物語である。高層ビルが立ち並ぶ環境が整っているからこそ、スパイダーマンは縦横無尽に移動し、「悪」と対峙することができる。
大正・昭和期に活躍した詩人・萩原朔太郎は、都市生活(都会生活)を次のように評したことがある。
「都会生活とは、一つの共同椅子の上で、全く別々の人間が別々のことを考へながら、互に何の交渉もなく、一つの同じ空を見てゐる生活ーー群衆としての生活ーーなのである。」(『萩原朔太郎詩集』新潮文庫、P.221)
『スパイダーマン』の世界においては、その「空」にあたる存在に「スパイダーマン」が位置付けられていく。「見て! スパイダーマンよ!」という声が叫ばれれば、通常はバラバラに生活している個々人が、ザッと顔を上げて、スパイダーマンの姿を追う。
スマホの画面に釘付けになっている現代人の姿が頭に浮かんで、一瞬暗い気持ちになった。
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