遭難したときは、(ハイライトと十字架/kazumawords.)
遭難したときは、その場から動くべきじゃないらしい。それは、その通りなんだろうけど。助けが来ないことが、わかりきっていたら。自分でなんとかするしかないと、知ってしまったら。それでも、動かない方がいいんだろうか。
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しんとしていた。音がなかった。そんな読後感だった。雪が静かに、切れ目なく降り積もり。気付けば、身動きできないほど埋もれている。よく見れば、それは雪じゃなく灰で。溶けてくれないし、どける力も失っている。八方塞がり。どうすればいい。
もういない人間への執着。は、囚われている本人以外には、どうすることもできない。解放されるきっかけを与えられても、無碍にしてしまえば、同じこと。どれだけ苦しんでも、その執着を捨てたくないとさえ思う。結局のところ、どうすれば。自分で自分を、どうすればいい。
自殺した友人の影に、未だに囚われている(もしくは、囚われていた)二人の人間。ふいに、誰かが永久に喪われてしまったとき。その誰かがいない将来を思い描いていなかったとき。息が詰まるし、行き詰まる。どうすればいい。
自殺は、寿命を全うしたわけじゃない。不可抗力が働いたわけでもない。自分で自分を殺す行為。そうせずにはいられなかったほど。他人の想像の範疇を越えて、誰かはなにかを考えていた。(だから、「自殺」じゃなく「自死」とする表現が嫌いだ。あれじゃ、事の重みがわからない。)じゃあ、他人であるところの残された人間は、どうすればいい。
どうすれば?
どうすることもできない。どうにもできない。自殺した人間は、もういない。その人間を忘れて、笑って生きたとしても。一生、影から逃れられないとしても。きっと、変わらないことなんだ。何をしたところで、戻ってくるわけじゃない。それは、救いだろうか。それとも、絶望だろうか。
簡単に前へ進むことはできない。ずっと影を追いかけていたんだから。それでも、生きていくと決めたんだろう。この話の二人は。背筋をまっすぐ伸ばすこともできず、けれど、たとえそこが泥の中でも、歩くのを止めないんだろう。
不器用で、回りくどくて、面倒くさい。それを人間と呼べないなら、何を人間と呼べばいいんだろう。ぼくには、わからなかった。
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遭難したときは、その場から動くべきじゃないらしい。それは、その通りなんだろうけど。もし、光がそこにあることがわかったら。少しは、動いてもいいんじゃないか。そう思う。