イントロダクション(4916字)
その1:黒さんの場合
その女の子は、茶色い髪を肩まで伸ばしていました。陽の光を丹念にほぐしたような、優しい色です。女の子は、まるで何かから守るように、自分の髪にそっと触れました。
「ご本人が気に入っているのであれば」
と、その美容師さんは言いました。
「私には、することがありませんね」
そのことばに、女の子はむっとしました。
「仕事してください」
「そうなんですけどね……。でも、黒さんが嫌がることはしたくないんですよね……」
「『黒さん』と名前を付けられたことが、すでに嫌なんですが」
「私も不本意です」
この美容室は、少し変わっていました。お客さんのことを、色にさん付けで呼ぶのです。今日のお客さんは、黒染めを希望しているので『黒さん』。そんなお店を切り盛りしている美容師さんは『青さん』といいました。
「まあ、今日はですけどね」
青さんは、青色の髪をしていました。しかし、昨日は『金色さん』、一昨日は『赤さん』だったそうです。
髪型にしてもそうです。今は腰に届かんばかりの長さをポニーテールにしていますが、ショートヘアの日もあれば、おかっぱになっていることもあるそうです。
「私は、どのお客さまもそうお呼びしています。カラーをご希望の方だけではありません」
黒さんは、まだぴんと来ていません。
「でも、色ですよね? カラーリング以外に何があるんですか?」
「少々お待ちください」
話を聞いているのかいないのか、青さんはバックヤードに引っ込んでしまいました。来る店を間違えたのかもしれないと、黒さんは施術前から後悔し始めていました。
黒さんが、美容室を訪れた理由。それは、髪色を自然な黒色にしてもらうことでした。
黒さんは現在高校生で、通っている学校は染髪禁止です。黒さんは茶髪ですが、染めているわけではないので、何も問題ありません。しかし、黒さんの学校では、黒髪以外は全て染髪とみなされるのです。たとえ、地毛でもです。
黒さんは自分の髪を気に入っていました。大好きなお母さん譲りの、大好きな髪。けれど、「黒色じゃない」ただそれだけの理由で、学校側から、まるで汚らわしいもののように扱われたのです。
黒さんは何を言われても大切なものを守ろうとしましたが、その内呼び出されてまで注意を受けるようになったので、すっかりまいってしまいました。
黒色を茶色にするのはだめなのに、どうして茶色は黒色にしなきゃいけないの? 黒さんは、唇を噛みしめました。
「お待たせいたしました」
黒さんは、肩をこわばらせました。青さんの背がずいぶん高いこともあり、頭上からかかった声は、これから大切なものに泥を塗られる宣告のように思えてなりませんでした。
けれど、青さんが運んできたワゴンには、カラーに必要なものは一切乗っていませんでした。代わりに用意されていたのは、数種類のウィッグでした。
「まずは、ウィッグを付けてみましょう。それで、黒さんが気に入らなければカラーは止めましょう」
青さんは言いました。
「止めましょう、って……。言ったじゃないですか、染めなきゃいけない、って」
「黒さんは『染めなきゃいけない』とおっしゃっていますが、『染めたい』とは、私一言も聞いていません」
「でも」
「まあまあ、まずはやってみましょう」
黒さんはまだ不服でしたが、ウィッグを付けないことにはカラーもしてもらえなさそうなので、しぶしぶ承諾しました。
「さきほどのお話ですが」
青さんは、手際よくウィッグを取り付けながら言いました。
「黒さんは、私がお客さまを色でお呼びすることを、疑問に思っていましたね」
黒さんは、鏡の中で茶髪が黒髪に埋もれていくのを眺めながら、そういえばそんなことを言った気がすると思いました。
「そのことについて、詳しくお話しましょう」
そして、青さんは話し始めました。
その2:白さんの場合
「白シャツに似合う髪型にしてほしいんです」
と、そのお客さんは言ったので、その方は『白さん』になりました。
白さんは、リネンの白シャツを洗いざらしで身に付けており、彼のすらりとした体躯によくなじんでいました。
「あなたの白シャツも、なかなか良いですね」
「あら、ありがとうございます」
折りしも、その日は青さんも白シャツを着ていました。偶然とはいえ、そのおかげでしょう。白さんの青さんへの信頼は、揺るぎないものになったようです。
「お願いできますか? 白シャツに似合う髪型」
「もちろんです」
さらりと言ってのけた青さんに、白さんはホッとした笑みを浮かべました。
「この注文をしたのは、初めてじゃないんです」
白さんは、スタイリングチェアに身を預けながら言いました。
「けれど、今までお願いをした美容師さんは、皆一様に戸惑った表情を見せるんです」
青さんは白さんのお話に、しっかり相槌を打ちました。まずはじっくりカウンセリングをするのが、青さんのスタイルです。
「少し、質問してもよろしいですか?」
「どうぞ」
「白さんは、白さんなりのこだわりがありますね? きっと、白くてシャツなら、何でもいいわけじゃありませんね。そして、こだわりがあるのは、身に付けている白シャツだけではありませんね」
白さんはぽかんとし、青さんは『少し』と前置きしておきながら、立て続けに質問したことを謝りました。
「いいえ。むしろ、ありがとうございます。こんなに真剣に向き合ってくださった方は初めてなので」
白さんは、咳払いをして話し始めました。
「その通りです。私は白シャツ愛好家を自負していますが、ただの蒐集家ではありません。白シャツは、着ることで愛さなければいけない。それは、身に付けるだけで成立するものではありません。この白シャツにふさわしいズボンに、身のこなしに」
そこで、白さんは一拍置いて答えました。
「白シャツにふさわしい髪型でなければいけないのです」
「あなたこそ、真の愛好家です」
青さんは、思わず拍手しました。白さんは思わぬ賞賛にはにかみました。
「そういうことであれば、私も最善の協力をさせていただきましょう」
そこで青さんは、ようやくカットの準備をし始めました。
「白シャツ愛好家の白シャツ愛好家による白シャツのためのヘアスタイル。承りました」
青さんはハサミを構え、このお店の決まり文句を口にしました。
「これからのあなたの人生も――」
その3:黄色さんの場合
「好きな人に花を贈るんです」
と、そのお客さんは言いました。
「告白もしようと思っています。だから、スタイリングをお願いしたいんです」
その男の子は、まるで目の前の青さんが告白の相手であるかのように、頬を紅潮させていました。小学生くらいでしょうか。緊張のあまり、目が見開いたままになっています。
「何をお贈りするんですか?」
「ガーベラです」
「何色ですか?」
「黄色です」
なので、その方は『黄色さん』になりました。
「少し、質問してもよろしいですか?」
「何でも訊いてください!」
青さんは、その勢いのよさに微笑みました。
「黄色のガーベラを選んだのはどうしてですか?」
そう訊かれた黄色さんは、突然大人しくなりました。黙りこくってしまった黄色さんを青さんが心配し出したころ、
「『究極の愛』だからです。花言葉が」
さっきまでの勢いはどこへやら、黄色さんはしどろもどろに答えました。
「その、黄色にしたのはそういうわけなんですが、そもそもガーベラを選んだのは、好きな人にすごく似ていて、いや、人が花に似ているなんて変に思われるかもしれませんが、かわいくて、黄色も似合う子だし、その」
そこで黄色さんは、がっくりと肩を落としました。
「こんなんじゃだめですよね。告白するんだから、しっかりしなきゃいけないのに」
「だめなことはありませんよ」
青さんは黄色さんを鼓舞しました。
「ことばがいくらもつれても、想いは伝わるものなんです」
黄色さんは、おずおずと青さんを見上げました。
「あなたを黄色さんとお呼びしているのは」
青さんは続けました。
「すっかり染まっているからです。黄色のガーベラが似合うその方の色に」
黄色さんは顔をますます真っ赤にし、けれど好きな人への想いを再確認しました。
「では、黄色さんの一世一代の告白、お手伝いいたします」
青さんは、手品師のような手付きで、ワゴンにかけていた埃除けの布を外しました。
「よろしく、お願いします!」
黄色さんも、気合いを入れて返事をしました。そして青さんは、このお店の決まり文句を口にしました。
「これからのあなたの人生も――」
その4:虹さんの場合
「虹に好かれる髪にしてほしいんです」
と、そのお客さんは言ったので、その方は『虹さん』になりました。妙齢の女性で、どこか浮世離れした印象がありました。
「虹に好かれる、ですか……」
青さんは、思わず反芻しました。
「間違っても、頭を七色にしないでくださいね」
冗談半分、真面目半分で虹さんは釘を刺しました。
「まさか」
青さんはきっぱり答えました。
「頭を七色にされたいのなら、話は別ですが」
虹さんをスタイリングチェアに案内すると、青さんはいつも通りカウンセリングから始めました。
「『虹に好かれる髪』とおっしゃいましたね」
「ええ」
「それは、虹が好きだから、好かれたいということですか?」
虹さんは、青さんをふり返りました。その目は、青さんではなく、どこか遠くを見つめているように見えました。
「私、虹に恋をしています。いつ現れ、いつ消えるのかわからない、儚いもの。あんなに綺麗なものを、他に知りません。……変に思われるかもしれませんが」
「恋は、おしなべて変なものです」
やれやれまったく、と青さんは肩をすくめました。
「どうしてその想いを、髪に託そうと思ったんですか?」
青さんは訊きました。
「雨が降ったら、最初に体に当たるのはどこだと思いますか?」
虹さんは、逆に質問しました。
青さんはしばし熟考し、答えを出しました。
「頭ですね。傘が無ければ」
「そうです。雨のことをよく知っているのは頭であり、髪です。雨は、虹のことをよく知っています。だから、髪に虹のことをよく知ってほしくて」
そのことばに、青さんはなんとなくヒントをつかんだ気がしました。
どんなに難しく思える注文も、青さんはじっくり話を聞き、お客さまの要望にじっくり向き合います。なぜなら、青さんは常々こう願っているからです。
「これからのあなたの人生も――」
その5:再び黒さんの場合
「はい、できましたよ」
青さんのお話に聞き入っていた黒さんは、ハッとして目の前の鏡を見ました。そこには黒髪の、学校の理想を強要された姿がありました。
「いかがですか?」
「へどが出ます……あ」
「じゃあ、止めておきましょう」
うっかり出た本音を聞き逃さなかった青さんは、黒さんからさっさとウィッグを外しました。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「はい、どうぞ」
黒さんは、いきなりプリントを二枚渡されました。思わず手に取ったそれは、地毛証明書とアレルギーテストの結果表でした。
「これ……」
「学校に提出してみてください。きっと味方になってくれると思います」
「私、パッチテストしてませんよ」
「するまでもありませんよ。心が拒否しているんですから。立派なアレルギーです」
まさかこの人、最初からそのつもりで……。これまでひとり戦っていた黒さんは、思いがけず味方が付いたことで、思わずぼんやりしてしまいました。
無理に染めなくてもいいの? これからも、この髪を「好き」だと言っていいの?
「そうだ。不快な思いをさせてしまったお詫びに、トリートメントはいかがですか? サービスです」
青さんはワゴンの上のウィッグを全て片付けると、トリートメントの準備を始めました。まだぼんやりしている黒さんは、促されるままスタイリングチェアに座り直しました。
「とても柔らかくて、優しい色の髪ですね。これからも、大切にしてくださいね――『茶色さん』」
青さんに髪を優しく触れられ、『茶色さん』は、胸に込み上げてくるものを感じました。それは、大切なものを守ってくれた青さんへの感謝と、大切なものを守っていくという決意でした。
青さんは、いつものように決まり文句を、願いを込めて言いました。
「これからのあなたの人生も、薔薇色でありますように」
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