見逃したとて、(風街のふたり/カシワイ)
ひとりでいると、声を出すことがない。本当にない。ことを、意識することがない。のを、老人が、自宅に入ってきた少女に声をかけるシーンで、ふと思った。そこに意味なんてないだろうけど。
昔から、ひとりでどこかをうろつくのが好きだった。知っている場所でもいい。知らない場所でもいい。知っている場所でも、ふいに、見知らぬ場所に見えることがある。いくら知っても、知りつくすことがない。ぼくが、今住んでいるこの町も、10年では足りない年数を過ごした生まれ育った土地も、きっと。
ひとりでうろつくときは、なにかを知るのも、当然ひとりだ。たとえ、その「なにか」を知っているのが他にいたとしても、そのときその場を知るのは、自分だけだ。
優越感を覚えたことはない。自分ひとりのための場所ではない、と知っているから。けれど、喜びは大きい。自力で、大抵は偶然、見つけたときの喜びは。
そこで知った「なにか」を、自分の中にとどめておくこともある。あるいは、誰かに知ってほしくて、その誰かに教えることも。教えることで、「なにか」が損なわれるとは、思わない。
必ず、とはいえない。人によるだろうから。人によっては、「なにか」を損ねるようなことをするかもしれないから。だからぼくは、「なにか」を大切にしてくれるだろう人にしか、教えない。(そもそも、大切にできない人は、「なにか」について聞く耳を持とうとしないだろうから。)
教えたくなるのは、どうしてだろう。これから先も、上手く言える気がしない。「人と人は、なにかを分かち合う生きものだ」とか、諭す立場にはないし、そもそもそんな思想は持っていない。残念ながら。
けれど、教えたくなる気持ちは本当だ。なぜだろう。その人が喜ぶがどうかは、その人次第だ。わからない。けれど、ぼくはいつも、「なにか」を携えて、誰かに会いに行く。
「なにか」について、具体的に言うこともできない。けれど、それは光のようにあたたかいものだと思う。だから、つまり、あたためたいのかもしれない。ぼくの中にずっとある「なにか」を大切にしてくれた人を、あたためるために。
ぼくの目は、いつも「なにか」を探している。映している。
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