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おやすみ、sheep(お題「星、発見、眠り」)

その日、スマホを開くと、インストールしていないはずのアプリがあった。


『おやすみ、sheep』


名前の通り、羊のかわいらしいアイコンだったけど、たぶん、うっかりタップしたらウイルス感染してしまう、そういうアレだと思った。でも、何度削除しようとしても、「システムアプリは削除できません」と警告が出た。そんなはずはない。こんなよくわからないアプリが、最初から入っているはずがない。


だから僕は、それを開いてみた。かわいらしい分、得体の知れなさはあったけど、なにより、その名前に惹かれていたから。


まず最初にアプリの名前が出てきて、それからすぐに、一つのボタンが現れた。


「明かりを消しますか?」


背景は真っ暗で、それ以外には何もなかった。無料アプリでよくある広告どころか、メニューバーも見当たらない。普通、アプリを初めて起動したときには、チュートリアルが始まるはずだけど、それすらないなんて。


明かり……。消す……。AI家電の類? でも、僕はそんなもの持っていないし、そもそも家電とアプリを同期させるようなボタンが無いし……。


試しに、問いかけ通りにボタンを押してみた。当たり前だけど、何も起こらない。部屋の照明も、机の上のスタンドライトも、時々点滅するけど、点いたままだ。スマホの挙動におかしなところはないし、今のところ、害はなさそうだ。


アプリのアイコンの羊が何羊なのか調べている内に、その日は眠ってしまったみたい。


『おやすみ、sheep』の機能を知ったのは、それから一週間後だった。


その日は真夏日で、夕暮れ時になっても暑かったから、ベランダで涼んでいた。あのとき、ベランダの窓を開けたとき、一番星が目に飛び込んできたのは、ただの偶然だったんだろうか。


僕はベランダに足を放り投げて、例のアプリをいじっていたけど、ふと顔を上げたときに、空に違和感を覚えた。しばらくはその正体に気付かなかったけど、二番星が現れたときに、疑問が氷解した。二番星が一番星になっている。つまり、最初の一番星が消えている。もしかしたら、ただの見間違いだったのかもしれない。けれど僕は、自分が手にしているアプリとの関連性を、考えずにはいられなかった。


次の日、観測できる恒星の数が急激に減っていることを、ニュースで知った。


ニュースを知った翌日、僕は郊外の山に出かけた。街中じゃ見ることのできない、満天の星を確かめるために。


展望台に着く頃には日は沈んでいて、近くに街灯もないから、星がよく見えた。その場で大の字になると、視界一面、天の川が流れていて、手を伸ばせば、すぐに抱きしめることができそうだ。


そして僕は、このすばらしい夜空に、マホを掲げた。あのアプリを起動して。


「明かりを消しますか?」 イエス。
「明かりを消しますか?」 イエス……。


僕は、何度も何度もボタンをタップした。自分の犯した罪を上塗りするために、また罪を重ねる。


僕は、悪いことをしているんだろうか。そもそも、これは悪いことなんだろうか。じゃあ、どうして僕のスマホに、こんなものが入っているんだろうか……。


突然、鼻に激痛が走った。手にしていたスマホを、顔の上に落としたのだった。拾い上げた指先は、使い過ぎでじんじん痺れていた。スマホの画面は、まだ「明かりを消しますか?」と問いかけている。


僕は、改めて空を見上げた。ここに着いたときよりも、暗くなっている気がした。


そして、その時は来た。


「明かりを消しますか?」イエス。


突然、目の前が真っ暗になった。前も後ろも右も左も上も下も――何も見えない。手さぐりで、天井の照明の吊り紐を掴む。でも、いくら引っ張っても、明かりは点かない。机の上のスタンドライトも同じだった。カチカチと小気味のいい音のするスイッチを押しても、反応はない。停電? ブレーカーが落ちた? 違う、これは――。


「残るは、太陽と地球のみです」


今朝のニュースを思い出す。


「その他の星々は全て、光を失ってしまいました」


星は、大きく三つに分類される。地球のような惑星。月のような衛星。そして、銀河系の大部分を占める恒星。太陽光を反射している惑星や衛星と違い、恒星は自ら光を放つ星だ。


「明かりを消しますか?」


あの問いは、恒星だけに向けられていると思っていた。でも、恒星の明かりが全て途絶えても、アプリが消えることはなかった。僕もまた、ボタンを押すことを止めなかった。月も金星も見ることができなくなっても、アプリは僕に問いかけ続けた。


「明かりを消しますか?」


もしも、「消しますか?」じゃなくて「消してください」だったら、消さなかったのかな。そんなことを、今さら考えた。


寒い。真夏なのに、真冬よりも寒い。室温がどんどん下がるのを感じる。タオルケットならすぐ近くにあるけど、こんなものじゃ寒さは防げない。でも、きっとどんなに分厚い毛布でもダメなんだろうな。


自分の鼓動が、よく聞こえる。視覚が使えなくなると、聴覚が研ぎ澄まされるって、本当だったんだな。今まで気にしたことなかったけど、耳を澄ませると、気持ちのいいものなんだな。


明かりを失い、温もりを失い、原始以前の暗闇が残った。ただ、それだけのことだ。それ以上の意味なんてないんだ。


「おやすみ、sheep」


僕は、人類最後の眠りに、別れを告げた。

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