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不完全と完全の狭間にて。

『わたしは夕焼けを
       あなたと見ていた。』


この文章を読むと、夕焼けをあなたと見ていたという情報が読み取れる。
それ以上でも以下でもない、完全な文だ。


では、不完全な文章の場合はどうだろうか?



⭐︎

『夕焼け あなたと』


主語も動詞も、句読点すら抜けた不完全な文だ。しかしどうだろう。不思議と、夕焼けを眺める2人の後ろ姿を想像できてしまう。さらには、「あなた」と「わたし」との関係も想像してしまう。
 不完全な文が残す余韻が、文の読み手により奥ゆかしさや、美しさの色を示す特性がある。


しかしこれが、


『夕焼け あなたが』


だった場合、「あなたが、何?」というふうに、誤字(接続詞ミス)が意味理解のノイズになる。「夕焼け」や「あなた」などの情景想像の前にまず、この文章が「気持ち悪い」とさえ感じ、どこがどう間違えているのか、あるいは違う名詞や動詞のパターンをいくつか推測してしまう。


『夕焼け あなたと 〜貞子すぎる後ろ姿〜』




言語学者ノーム・チョムスキーは、このことばの持つ性質を「生成普遍文法」の中で理論づけた。
 チョムスキーは、我々の脳にある、語彙や文章構成をつかさどる言語野とは別に、生まれながらにして間違った文法や言葉に対し「気持ち悪い」と直感的な判断能力があると主張している。
つまり、人間は生まれつき、自然言語の文法的な正しさに対して敏感であるということである。



 ということは、意味がなくても文法や表現が明らかに間違えていなければ「気持ち悪い」と言う感情は芽生えないということなのか?

実際に検証してみよう。

⭐︎

『海の向こうから、スタスタと、その三角の丸は私の方へ歩いてきた。』


 まるで意味がわからない。「海の向こうから」なのに「スタスタ」と「歩いて」きている。さらに極め付けは「三角の丸」だ。(なんやそれ。)



意味がわからない、しかし文法上「気持ち悪い」という感覚はそれほどない。

『スタスタ歩いてくる三角の丸』

 チョムスキーの理論は、言語能力が単なる学習や模倣の産物ではなく、生得的な脳の機能によるものであるという考え方を強調している。
言語野が語彙や文章構成を扱う一方で、この生得的な文法感覚は、言語の「正しさ」や「自然さ」に対する直感的な反応を可能にするとされているのだ。



 不完全と完全の狭間に存在する、ことばの余韻のようなものや、完全な文では読み取れない奥ゆかしさや、優雅さというのはまるで、天と地の狭間にふと現れるオーロラのように摩訶不思議だ。

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