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わかりあうのに必要なのは、共感だけじゃない

◆互いの価値観に納得できないと不安になる
恋愛でも、家族でも、仕事でも、一緒に過ごす相手の価値観を理解すべき、
自分の価値観も理解してもらうべきってつい思って、
必死になってしまうこともあるもの。

でも、当然ひとの数だけ価値観は存在するし、
そもそも価値観の定義だって、よくわからない。
どこまでがその場の感想? どこからがそのひとの価値観?

価値観が違うように感じる場面があると「え?なんで?」と、
関係性が近いほど驚いちゃったりもするし、
「おかしいんじゃない?」と思うこともあれば、
「なんで伝わらないの?」と落胆もする。

なにより「不安になる」
居心地が悪いような、このひとと一緒にいて大丈夫かな、とか
将来を考える相手だったりすると、なおのこと。

だから「価値観」という言葉は、恋愛や結婚相手を考えるときの
基準というテーマの場面が多い気がする。


◆「価値観が同じ」が良いとされるのは、疲れないから
価値観が近いかどうかが、人付き合いの基準になることは多い。
(価値観の違うもの同士が集まる方が面白いという人もいる)

どうして一般的に、価値観が近いことが良いと言われるんだろう。
自分が価値観が近い相手といて得られたメリットを思い返すと
良い意味で「考えなくていい」こと。

何かの出来事に対して価値観の違いが現れて、その違いを攻略しないと
目に進めない状況だったとき。お互いがある程度違いを理解するために
やるべきこと・必要な要素は、時間がかかればかかるほど増えていく。

◎やるべきこと
・相手の価値観を聞いたり
・自分の価値観を説明したり
・説明だけでわからなければ、その理由を紐解いたり

◎必要な要素
・お互いの価値観を知ることへの熱量、見出せる価値
・お互いがそのために割く時間や労力に対しる価値
・そもそも「話し合う」ということに前向きか、希望しているか
・自分の価値観を自分が理解しているか
(できていなくても、気づいたその場で考える意思があるか)
・自分の価値観を理解した上で、それを言語化しているか、相手へ説明できるか
・自分の価値観を理解した上で、それを正直に伝えられるか
・相手の異なる価値観に対する思いを素直に言葉にするか、あえてしないか

...考えなければならないことは、無数に広がっていく。

以前、交際相手に、話し合いをとても苦手とする人がいた。
彼は経験上、人とじっくり話し合うという行為をあまりしてこなかったそうで、
かつ、必要性も感じないという価値観。
価値観が違うことに否定的ではなく、むしろ楽しむこともできるが
そのことで支障がある関係なら、離れればいいという人だった。

私はそれがなんとも悲しくて、また諦められなくて
この人はできないけど、私はできる。話し合うこと、わかりあえることの
大切さを知っている。
できることを示すことで、この人もきっとできるようになる、
そうして乗り越えることで、彼との関係はきっと今よりもっと良いものになる。
と、まるでロボットに感情を持たせるんだ!というような希望と万能感で奮闘した。

・どうして人の感情にもっと興味を持たないのか
・どうして大切な人のことをもっと知ろうとしないのか
・どうして相手の気持ちを想像できないのか
・どうして関係ない他人の気持ちなら無視できるのか
・どうして能力で人を判断するのか
・どうしてそんな言葉を使うのか、言葉の意味を考えないのか、大切にしないのか

私と彼は、価値観が恐ろしいほど違っていて、それはただ「違う」という事実だった。
何が良いも悪いもない、「違い」というものに、私が納得できていなかっただけ。
私は正義感と万能感で、相手がおかしい、私が正しい方向へと信じ切っていたが、
冷たいと感じた彼の「わかり合えないなら離れて、他の人を探したほうがいい」
という価値観は、今思えばとても健康的な考え方だと思う。

彼は疲れていた。それ以上に、私は疲弊し切っていた。
人生で経験したことのないたくさんの思考と感情と言葉を紡いだ結果、
彼から返ってきたのは、何一つ伝わることがなかったという事実だったから。
私と比べて対して言葉を紡ぎ出せなかった彼が、最終的にこちらの意図は
何も理解されなかったのになぜ疲れていたのか、今はわかる。


◆なぜ価値観を理解して欲しいのか、されないと辛いのか
“自分の価値観が理解されない”=“相手と価値観が異なる” 場面が想像される。

なぜ自分の価値観を理解してもらいたいのか。
価値感を理解されることは、何を意味するか。
私たちはそれで、どんな報酬を得ているのか。

価値観が理解されると、共感できると嬉しくなるのは
“自分をわかってもらえた気がするから” = “自分を認めてもらえた気がするから”
じゃないだろうか。

私たちの多くが、常に誰かに認めてもらいたいと思っている。
逆に言えば、そういう感覚の人からすると、価値観を理解されないということは
飛躍すれば “自分を否定されている” と同意になるかもしれない。

だから、愛されていない感じがするから
近い相手ほど、価値観を理解されないと辛いのかもしれない。

◆大切なのは「知る」こと
とても価値観の違う友人ができて、私の価値観に対する価値観も大きく変わった。

初めは、あまりの違いに戸惑うこともあった。
彼女の正義感や倫理観は、これまでの私の経験からなる価値観では
到底すぐには理解できなかったし、理解できないことは私にとって絶望だったし、
奮闘材料でもあった。

これまでの友人は、価値観の違いも話せば理解し合えることが多かった。
そのおかげで、私は違いを説明したり納得させることに自信があった。
類は友を呼ぶといった関係で、そもそも考え方の近い人としか関わってこなかったというのもあるかもしれない。

でも彼女は、これまでか関わった友人とは全く違った。
私がどんなに綺麗(と私が感じる)価値観を並べても、どう考えても一般論だと
思う考え方を話しても、彼女の価値観や感想を揺るがすことはなかった。
ただ彼女は、私の意見を聞かないことも否定することも、彼女の価値観で私を変えようとしたりコントロールしようとすることも、共感を求めることもしなかった。
ただ「そうなんだ」「そういう価値観があるんだ」と聞くばかりだった。

私の話す価値観は、おそらくだが体感は割と日本人の平均的な価値観といったところで
飛び抜けて個性的な、クセのあるものではないと思う。
そして彼女は、かなり個性的で、私は人生で聞いたことのないような価値観をたくさん目の当たりにすることになる。

例えば、私は当たり前のように「良心はあったほうがいい」と思うので、ある程度それがあるとも思うし、「もっとそうあらねば」という感覚で生きてきたが、
彼女は「私はあまり良心がないと思う」かつ「もっと良心を持ちたいと思わない」といった具合。

私は呆気に取られるばかりだった。その価値観自体にも少し面食らったが、そういう価値観を堂々と友人に口にできることに。
(私はそんなこと、思っても口に出してはならないと思っていたから)

初めはとんでもない人だと思った。
でも彼女の価値観は、常に究極の自分軸であること。
自分勝手とか、自己中心的というのとはまた違う、人に影響させる何かではなく
ただそこに「他者比較」というものが全く存在していない価値観。

例えば「良心があった方がいい」は、何と比較して?誰と比べて?
その良心は誰にとっての良心?
私の思う良心やそれがあるということによって伴う言動には、常に他者がいる。

「相手がどう思うか」 これなしに、私の良心は語れなかった。

彼女に良心がないわけじゃなかった。
むしろ彼女は友人想いで、自分の気づかないところで価値観の違いで
相手を傷つけたことを知れば、本当に反省して、次からそうならないように
考えられる人だった。

そこに「共感」はない。彼女は同じ状況になっても傷つかない。
でも「相手は傷つくんだ」という事実を、彼女は「知った」のだ。

彼女との関係性は、長くは続かないだろうと思っていた。
でも、気づけば何年も続く関係性へと成長していた。

彼女と過ごす時間の中で、価値観や感じ方は、共感できれば最高だけど
共感できなくても理解できれば
理解できなくても知ることができれば
ともにいることはできるのだと、気づくことができた。

共感や理解をされないことは、否定じゃない。
必ずしも問題や支障にはならないのだと、知ることができた。

◆最後に
人の価値観や感じ方を理解することに躍起になる前に
自分の価値観、その理由や必要性を理解することのほうがよほど大切だと感じる。

価値観なんて、ずっと同じとは限らない。
自分も他人も、生きていく上で、どんどん変わっていくもの。

だからこそ、他人の価値観に振り回されるのではなく、
それは相手の一つの個性として観察して、
違いあるなら楽しめるのが一番理想的。

それを楽しむために
なにより変わりゆく自分の価値観を
見つめて、感じて、大切に育てていきたいと思う。

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